て形象されているようにおもえた。僕にとって揺らぐ不安げなものは既にセピア色の澱みのなかに支えられ、狂おしく燃えるものは朱のなかに受けとめてあった。
(今も僕はボティチェルリの描いた人間の顔ははっきり想い出せるのに、僕がこれまでの生涯で出会った無数の人間の顔はどうなったのだろうか。現実の生きている人間の印象は忽ち時間とともに消え去るのに、記憶の底に生き残っている絵の顔は何故消えないのか。その輪郭があまりにきびしく限定され、その表情が既に唯一の無限と連結しているためなのだろうか。……恐らく、僕が死ぬる時、それは精神が無限の速力で墜落して行くのか、昂揚してゆくのか、僕にはわからないが、恐らく僕が死ぬる時、僕はこの世からあまり沢山のものを抱いて飛び去るのではないだろう。僕のなかで最も持続されていた輪郭、僕のなかで最も結晶されていた理念、最も切にして烈しかったもの、それだけを、僕はほんの少しばかしのものを持って行くのではないのだろうか)
その展覧会を見てから後は、世界が深みと幅を増して静まっていた。僕の眼には周囲にあるものの像がふと鮮やかに生れ変って、何か懐しげに会釈してくれた。それから、はじ
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