にはあった。どうかすると僕は無性に死んでしまいたくなることがあった。早く、早く、という囁きのなかに、芝居の書割に似た河岸を走っているオフェリアの姿が見えた。僕のすぐ足許にも死の淵があった。「死」は僕にとって透明な球体のようだった。何の恐怖もなく美しい澄んだ世界がじっと遠方からこちらを視詰めているようだった。僕は何ごとかを念じることによって、忽ちそのなかに溶け入ることが出来るのではないかとおもった。すると僕の足許には透明の破片がいくつも転がって来た。僕の歩くところに天から滑り墜ちて来る「死」の破片が見えた。その「死」は僕の柔かい胸のなかに飛込んで不安げに揺らぎ羽搏くのだった。
 不安げに揺らぐものを持ったまま僕は、ある日、街の公会堂で行われている複製名画の展覧会場へ這入って行った。木造建の粗末な二階の壁はひっそりとした光線を湛えていた。その壁に貼られている小さな絵は、僕にとって殆どはじめて見る絵ばかりであった。ボティチェルリの「春」が、雀に説教をしている聖フランシスの絵が、音もなく滑り墜ちて僕のなかに飛込んで来るようだった。僕は人類の体験の幅と深みと祈りがすべてそれらの絵のなかに集約され
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