の狭い玄関、一メートル四方にも足りない土間で、その靴を穿いて立上ると、この窮屈な家屋全体の不安定感は僕の靴の踵に吸収されてしまふ。だから、僕は道路の方へ歩きだしても、足もとの地面はくらくらし、遠い頭上から何かサツとおそろしい光線がやつて来さうになつたり、魔のやうな時刻がつきまとふのだが……。

 このあたりの道がふと魔法のやうにおもはれてくる。さきほど僕は箱のなかから抜け出して、出勤にはまだ少し早いが、焼跡の往来を抜け溝橋を渡つて、とぼとぼとこの坂路をのぼつた。急な坂だが、そこを登りつめたところに、茫々とした叢がある。僕は何気なく叢の方へ踏み入つた。ふと見ると、坂の下に展がる空間は、樹木も家屋も空も、靄のなかに弱められてゐる。足許の草は黄色に枯れてゐて、薄の穂がかすかに白い。すべてが追憶のやうにうつすらとしてゐるのだ。なにもかも弱々しく、冷え冷えした空気まで実にひつそりしてゐる。これはどうした時刻なのだ?……突然、僕には疑問が涌く。僕はたしか昔何度もこんな時刻や心象を所有してゐた筈だが、それが今僕を迷路に陥し込んだのか。僕はこれから何処へ出掛けて行かうとしてゐるのだらう……(いつもの夜学へか?)これはいつもの路を歩いてゐるのだらうか。この路を歩いてゐるのは僕なのだらうか。僕はほんとに存在してゐるのか。眼の前にある靄を含んだ柔らかい空気は優しく優しく顫へてくる。僕のなかにも何か音楽のやうなものがふるへだす。これはどうした時刻なのだ?……冷え冷えした空気と僕の体温……溶けあつて僕はうつとり歩いてゐる。もしかすると、僕は荒涼とした地方を逍遙つてゐる贅沢な旅人かもしれない。砂丘や枯草が心細い影絵ではあつても、大理石の宿に着けば熱い湯がこんこんと涌いてゐる。僕のなかにメルヘンが涌く。メルヘン? あ、さうだ、僕はもう百日位、誰とも(生きてゐる人間と)話らしい話をしたことがないのだ。メルヘン? 僕はやつぱり孤独な旅人らしい。
 僕の提げてゐる骨折れ蝙蝠傘、……僕の踵に重くくつついてゐるゴム底靴、……僕の肩にぶらぶらする汚れた雑嚢、それらが、ふと僕をみじめな夜学教師に突落とす。メルヘン……災厄と飢餓の季節の予感に虫たちは、みなそれぞれ食糧や宝物を地下に貯へた。やがて天地を覆へす嵐が来た。そのとき僕はまる裸で地上に放り出された。あのときから僕はあはれな一匹の虫であつた。さうだ、虫けら
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