が中学に入る前の年に死んだ。僕は姉の死ぬる少し前、姉の入院してゐる病室を訪ねて行つたことがある。ベッドの中の姉は少し弱々しさうだつたが、不思議に冴えて美しい顔色だつた。澄んで大きく見ひらかれた眼が僕を見つめ、――こんな風な回想をしてゐると、僕はその女のひとが姉だつたのか、それともお前だつたのか、ふとわからなくなるやうだ。――姉は僕に何か話をしてくれさうな様子だつた。僕はその頃ひどく我儘で癇癪持ちの子供だつたが、姉の前でだけはいつも素直な気持になれるのであつた。姉の唇もとが動きだすのを僕は恰度お前の唇もとが動きだすのを待つやうな気持で待つてゐた。やがて、姉は静かに話しだした。僕はすつかりその話に魅せられてゐた。それはアダムとイブの、僕がはじめて聴く創世記の物語であつた。姉の澄んだ眼は、彼女がこの世のほかに、もつと遙かな場所――そんな場所をお前もどんなに熱心に求めてゐたか――を疑はない眼つきだつた。そしてそれはまつすぐ僕にも映つて来た。姉の話が終つたとき僕は何か底の底まで洗ひ清められてゐた。急に僕の眼には今迄と世界が変つて来たやうにおもはれた。その夕暮、僕がその病院を出て家に戻つてくる途中、街はづれにある青い山脈が何か活々と不思議におもはれ、僕のまはりにある凡てのものが、もつと遙かなところから繋がつてゐるのではないかとおもへた。僕は生れ変るのではないかとおもへた。僕は僕のうちにどんな世界がひらけてくるのか、まだ分らなかつたが、視えない世界の光が僕のなかに墜ちてくるのを思つてぞくぞくしてゐた。
僕が幸福の予感にふるへ、その世界をもつともつと姉から教へてもらひたかつた時、恰度その時、僕の姉は死んだ。臨終には逢へなかつたので、僕が姉と逢つたのは、あの病室を訪ねて行つた日が最後だつた。僕は姉が話してゐた、あの遙かな世界に、もうほんとに姉は行つてしまつたのだらうと思つた。だが、僕の上には何かとり残されたものの空虚が滑り墜ちてゐた。そのうちに姉の追憶がやつて来て、その空虚を満たすやうになつた。幼い時から僕はこの姉が一番好きだつたし、僕はこの姉から限りない夢を育てられたやうな気がする。子供の僕は姉が裁縫してゐる傍で不思議なお伽噺をうつとりとききとれたものだが、姉が嫁入したときのことも僕には何だかお伽噺のやうにおもへる。お伽噺の王女のやうに幸福さうだつた姉がほんとに死んでしまつたのだ
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