進んでゐるのだ。ふと僕の耳に僕のゴム底靴の鈍い喘ぐやうな音がきこえる。いつのまにか、さつきの美ごとな靴音は消えてゐる。
僕はがくんと突離されたやうな気持だ。路は急な下り坂になつてゐる。そこから茫とした夜の塊りが見える。僕の帰つて行く道もあの中にある。僕は溝の橋を渡つて、仄暗い谷底のやうな路を進んでゆく。……と、僕のなかには、あの家の前の暗い滑りさうな石の段々が、夢のなかの情景のやうに浮んでくる。あの石段と僕のふらふらのゴム底靴が触れあふ瞬間、僕はあの、しーんとし息を潜めたガラスの家の怒りが、こちらへ飛掛つて来さうな気持がするのだ。……が、僕は今もうその石段のところまで来てしまつてゐる。ひつそりとした、階下も二階の方にもまるで灯が見えない。停電らしいのだ。僕はおどおどと段々を踏んでゆく。僕は喘ぐやうに、その家の扉をそつと押す。狭い狭い入口に屈んで、難しい姿勢で靴の紐を解く。この棒のやうに重い脚、ふらふらの頭、僕の心臓は早く打ち、息が苦しげなのがわかる。僕はそつと靴を下駄箱に入れて、ふわふわと立上る。それから僕の眼は暫く暗闇のなかでぼんやり戸惑つてゐる。
ガラス壁の側にあるテーブルに白い紙のやうなものが仄かに見える。たしかあそこはいつも僕の食事が置いてある場所なのだ。僕はおそるおそる床板の上を歩いてゆく。匐い寄るやうな気分で、椅子の上に腰を下す。テーブルの上の新聞紙をそつと除けてみると、たしかに何か食べものが置いてある。僕は手探りで箸を探す。だが、ふとぼんやり疑が浮ぶ。僕は食べて差しつかへないのだらうか、これはほんとに僕のだらうか……。何かわからないが僕に課せられてゐる苛責が、それが冷やかに僕の眼の前に据ゑてあるのではないか……。だが、僕はわからないが、その、しーんとしたものを既に食べ始めてゐる。冷たい菜つぱ汁とずるずるの甘藷が、暗闇のなかで僕に感じられる。僕は食べながら、かすかに泣いてゐるやうな気がする。どこか体がぐつたり熱くなつてゆくやうな、やりきれない感覚に悩まされる。僕はひそひそと静かに急いで食べ了つてしまふ。それから、椅子を離れ、そろそろ闇のなかを手探りで歩く。細い細い階段を泳ぐやうに登つてゆく。僕の部屋の扉を手探りで押す。真暗な小さなガラス箱の部屋が僕に戻つてくる。やつと戻つたのだ。僕は蝙蝠傘をそつと板の間に置き、肩にぶらさげた雑嚢を外す。それから、ごろ
前へ
次へ
全14ページ中11ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
原 民喜 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング