疎開以来、他人の家を間借してゐたので、嫂も気兼の多い暮しだつたのだらう。
「これは、そこの畑にできたのですよ」と嫂は食卓の京菜を指した。家のまはりの荒地は耕されて、菜園となつてゐたが、庭のあとの池はまだそのまま残つてゐた。土蔵のあつた場所は石で囲まれて、一段と高くなつてゐたが、そこも畑にされてゐた。昔、彼が二階の窓から、樹木や家屋の混り合つた向うに眺めてゐた山が、今は何の遮るものもなく、あからさまに見渡せた。長兄は物置の方の荷を整理したり、何か用事を見つけながら、絶えず働いてゐた。

 慌しい旅を畢へて、東京へ戻つて来ると、彼の部屋はしーんとして冷え返つてゐた。火の気のない一冬が始まるのだつた。あんまり寒いときは彼は夜具にくるまつて寝込んだ。彼は震へながら、こんどの旅のことを回想してゐた。どういふわけか倉敷の二人の姪の姿が心を温めてくれるやうであつた。
「諸人、こぞりて……」といふ歌が彼の耳についた。あの小さな姪たちが、素直に生長して、やがて、立派な愛人を得て、美しいクリスマスの晩を迎へるとき、……さういふ夢がふと頭をかすめるのであつた。



底本:「日本の原爆文学1」ほるぷ出版
 
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