外に出た。その寺へ行く路の方にもだいぶ家の建つてゐるのが目についた。墓地は綺麗に残つてゐて、寺の焼跡にはバラツクの御堂が建つてゐた。
彼はぶらぶらと、昔、賑やかな街だつた方向へ歩いて行つた。その昔の繁華街は、やはり今度もその辺から賑はつて行くらしく、書店、銀行、喫茶店などが立並ばうとしてゐた。軒ばかり揃つて、まだ開かれてゐない、マーケツトもあつた。彼はその辺に、八幡村の次兄がバラツクを建ててゐる筈なので、その家を探すと、次兄の書いたらしい表札はすぐ目についたが、表戸は鎖されてゐた。横の小路から這入れさうなところを探すと、風呂場のところが開いてゐた。家のうちはまだ障子も襖もなく、毛布やカーテンが張りめぐらされてゐた。薄暗い狭い部屋には荷物が散乱し、汚れた簡単服を着た痩せ細つた小さな姪や、黝ずんだ顔の甥たちがゴソゴソしてゐた。窶れ顔の次兄は置炬燵の上に頤を乗せ、
「ここでは正月もへちまもないさ」と呟いてゐた。ここでは、彼にも罹災当時の惨澹とした印象が甦りさうであつた。
彼はその家を辞すと、川口町の姉を訪れてみた。縁側の方から声をかけると、部屋の隅でミシンを踏んでゐた姉は忙しさうな身振りで振向いた。それからミシンのところを離れると、
「とつと、とつと、と働くのでさあ。だが、まあ今日はお正月だから少し休みませう」と笑ひながら、火鉢の前に坐つた。
「兄さんたちは、それはそれはみんな大奮闘でしたよ。とつと、とつと、と働いて、あんなふうにバラツク建てたのです」
姉はそんなことを喋りだした。それは以前、彼に、「どうするつもりなの、うかうかしてゐる場合ではないよ」と忠告した調子と似てゐた。……彼が東京で、まだ落着く所も定まらず、ふらふらと途方に暮れてゐるうちに、兄たちは、とにかく、その家族まで容れることのできる家を建てたのであつた。
彼は長兄の家に二三日滞在してゐた。八畳、六畳、三畳、台所、風呂場――これだけのこぢんまりした家だつたが、以前近所にゐた人が訪ねて来ると、嫂は、
「とにかく便利にできてゐて、落着けさうですよ」と云つてゐた。この家にくらべれば焼ける前の家はまるで御殿のやうであつたが、その家を「こんな、だだつ広い家では掃除に日が暮れてどうにもならない」と嫂はよく苦情云つてゐたのだ。嫂の顔は何となく重荷をおろしたやうな表情で、それは彼に母が亡くなつた頃の顔を連想させた。疎開以来、他人の家を間借してゐたので、嫂も気兼の多い暮しだつたのだらう。
「これは、そこの畑にできたのですよ」と嫂は食卓の京菜を指した。家のまはりの荒地は耕されて、菜園となつてゐたが、庭のあとの池はまだそのまま残つてゐた。土蔵のあつた場所は石で囲まれて、一段と高くなつてゐたが、そこも畑にされてゐた。昔、彼が二階の窓から、樹木や家屋の混り合つた向うに眺めてゐた山が、今は何の遮るものもなく、あからさまに見渡せた。長兄は物置の方の荷を整理したり、何か用事を見つけながら、絶えず働いてゐた。
慌しい旅を畢へて、東京へ戻つて来ると、彼の部屋はしーんとして冷え返つてゐた。火の気のない一冬が始まるのだつた。あんまり寒いときは彼は夜具にくるまつて寝込んだ。彼は震へながら、こんどの旅のことを回想してゐた。どういふわけか倉敷の二人の姪の姿が心を温めてくれるやうであつた。
「諸人、こぞりて……」といふ歌が彼の耳についた。あの小さな姪たちが、素直に生長して、やがて、立派な愛人を得て、美しいクリスマスの晩を迎へるとき、……さういふ夢がふと頭をかすめるのであつた。
底本:「日本の原爆文学1」ほるぷ出版
1983(昭和58)年8月1日初版第一刷発行
初出:「文学者会議」
1947(昭和22)年8月号
※連作「原爆以後」の2作目。
入力:ジェラスガイ
校正:門田裕志
2002年9月20日作成
青空文庫作成ファイル:
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