だと云はれたら、それこそどうしやうもなかつた。
が、たうとう思ひきつて、ある日、信濃町の病院を訪れた。するとまた、彼のなかから新びいどろ学士が目をひらいて、あたりを観察するのだつた。その焼残つた別館の内科診察室の狭い廊下には昼間も電燈が点いてゐて、ぞろぞろと人足は絶えなかつた。彼が椅子に腰を下ろして順番を待つてゐると、扉のところへ出て来た高等学校の学生と医者とがふと目についた。その学生は、先日文化学院で見たピアノを弾く少年とどこか類似点があつたが、見るからに生気がなく、今にもぶつ倒れさうな姿だつた。
「電車などに乗つてやつて来るには及びません。家へ帰つて夜具の上に寝てゐなさい。窓を開け放して、安静にしてゐることです。充分な栄養と、それから、しやんとした気持で、決して決して、悲観しないことです」
医者が静かに諭すと、その青年は「はあ、はあ」と弱く頷いてゐる。ふと彼は病死した妻のことが思ひ出されて堪らなく哀れであつた。だが、彼の順番がやつて来ると、彼はまた新びいどろ学士にかへつてゐた。
「前からそんなに瘠せてゐたのですか」と、医者は彼の裸体に触りながら訊ねた。
「食糧がないから瘠せたのです」彼はあたりまへのことを返事したつもりだつたが、それは何か抗議してゐるやうでもあつた。見ると今、彼を診察してゐる医者は、配給がなくても、とにかく艶々した顔色だつた。
血沈の検査が済むと、彼は白血球――原子爆弾の影響で白血球が激減してゐる場合もあるから一度診察してもらふ必要は前からあつたのだ――を検べてもらふことになつた。彼は窓際のベツトに寝かされ、医者は彼の耳から血を採らうとした。メスで耳の端を引掻き廻すのに、血はなかなか出て来なかつた。「をかしいな、どうしたのかしら」と医者は小首を捻つてゐる。硝子の耳だから血は出ないのだらう――と彼は空々しいことを考へてゐた。だが、あふのけになつてゐる彼の眼には、窓硝子越しに楓の青葉が暗く美しく戦いてゐた。それはもし病気を宣告された場合、彼がとり得る、残されてゐる、たつた一つの手段を暗示してゐるやうだつた。……病院を出ると、彼は外苑の方へふらふらと歩いて行つた。強い陽光と吹き狂ふ風が青葉を揺り煽つてゐた。それに、あたりのベンチはみんな無惨に壊されてゐた。
彼が二度目にそこの病院を訪れると、医者は先日の結果を教へてくれた。血沈は三十、白血球の数
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