鮮から帰つて来て、まだ東京まで行くのだぜ、道々十里も二十里も歩かねばならないのだ」と云ひながら、毛布を取出して、「これでも売るかな」と呟くのであつた。
広島駅に来てみると、呉線開通は虚報であることが判つた。私は茫然としたが、ふと舟入川口町の姉の家を見舞はうと思ひついた。八丁堀から土橋まで単線の電車があつた。土橋から江波の方へ私は焼跡をたどつた。焼け残りの電車が一台放置してあるほかは、なかなか家らしいものは見当らなかつた。漸く畑が見え、向に焼けのこりの一郭が見えて来た。火はすぐ畑の側まで襲つて来てゐたものらしく、際どい処で、姉の家は助かつてゐる。が、塀は歪み、屋根は裂け、表玄関は散乱してゐた。私は裏口から廻つて、縁側のところへ出た。すると、蚊帳の中に、姉と甥と妹とその三人が枕を並べて病臥してゐるのであつた。手助に行つてた妹もここで変調をきたし、二三日前から寝込んでゐるのだつた。姉は私の来たことを知ると、
「どんな顔をしてるのか、こちらへ来て見せて頂だい、あんたも病気だつたさうなが」と蚊帳の中から声をかけた。
話はあの時のことになつた。あの時、姉たちは運よく怪我もなかつたが、甥は一寸負傷したので、手当を受けに江波まで出掛けた。ところが、それが却つていけなかつたのだ。道々、もの凄い火傷者を見るにつけ、甥はすつかり気分が悪くなつてしまひ、それ以来元気がなくなつたのである。あの夜、火の手はすぐ近くまで襲つて来るので、病気の義兄は動かせなかつたが、姉たちは壕の中で戦きつづけた。それからまた、先日の颱風もここでは大変だつた。壊れてゐる屋根が今にも吹飛ばされさうで、水は漏り、風は仮借なく隙間から飛込んで来、生きた気持はしなかつたといふ。今も見上げると、天井の墜ちて露出してゐる屋根裏に大きな隙間があるのであつた。まだ此処では水道も出ず、電燈も点かず、夜も昼も物騒でならないといふ。
私は義兄に見舞を云はうと思つて隣室へ行くと、壁の剥ち、柱の歪んだ部屋の片隅に小さな蚊帳が吊られて、そこに彼は寝てゐた。見ると熱があるのか、赤くむくんだ顔を呆然とさせ、私が声をかけても、ただ「つらい、つらい」と義兄は喘いでゐるのであつた。
私は姉の家で二三時間休むと、広島駅に引返し、夕方廿日市へ戻ると、長兄の家に立寄つた。思ひがけなくも、妹の息子の史朗がここへ来てゐるのであつた。彼が疎開してゐた処も、先日の水害で交通は遮断されてゐたが、先生に連れられて三日がかりで此処まで戻つて来たのである。膝から踵の辺まで、蚤にやられた傷跡が無数にあつたが、割りと元気さうな顔つきであつた。明日彼を八幡村に連れて行くことにして、私はその晩長兄の家に泊めてもらつた。が、どういふものか睡苦しい夜であつた。焼跡のこまごました光景や、茫然とした人々の姿が睡れない頭に甦つて来る。八丁堀から駅までバスに乗つた時、ふとバスの窓に吹込んで来る風に、妙な臭ひがあつたのを私は思ひ出した。あれは死臭にちがひなかつた。あけがたから雨の音がしてゐた。翌日、私は甥を連れて雨の中を八幡村へ帰つて行つた。私についてとぼとぼ歩いて行く甥は跣足であつた。
嫂は毎日絶え間なく、亡くした息子のことを嘆いた。びしよびしよの狭い台所で、何かしながら呟いてゐることはそのことであつた。もう少し早く疎開してゐたら荷物だつて焼くのではなかつたのに、と殆ど口癖になつてゐた。黙つてきいてゐる次兄は時々思ひあまつて呶鳴ることがある。妹の息子は飢ゑに戦きながら、蝗など獲つて喰つた。次兄の息子も二人、学童疎開に行つてゐたが、汽車が不通のためまだ戻つて来なかつた。長い悪い天気が漸く恢復すると、秋晴の日が訪れた。稲の穂が揺れ、村祭の太鼓の音が響いた。堤の路を村の人達は夢中で輿を担ぎ廻つたが、空腹の私達は茫然と見送るのであつた。ある朝、舟入川口町の義兄が死んだと通知があつた。
私と次兄は顔を見あはせ、葬式へ出掛けてゆく支度をした。電車駅までの一里あまりの路を川に添つて二人はすたすた歩いて行つた。とうとう亡くなつたか、と、やはり感慨に打たれないではゐられなかつた。
私がこの春帰郷して義兄の事務所を訪れた時のことがまづ目さきに浮んだ。彼は古びたオーバーを着込んで、「寒い、寒い」と顫へながら、生木の燻る火鉢に獅噛みついてゐた。言葉も態度もひどく弱々しくなつてゐて、滅きり老い込んでゐた。それから間もなく寝つくやうになつたのだ。医師の診断では肺を犯されてゐるといふことであつたが、彼の以前を知つてゐる人にはとても信じられないことではあつた。ある日、私が見舞に行くと、急に白髪の増えた頭を持あげ、いろんなことを喋つた。彼はもうこの戦争が惨敗に近づいてゐることを予想し、国民は軍部に欺かれてゐたのだと微かに悲憤の声を洩らすのであつた。そんな言葉をこの人の口からきかうとは思ひがけぬことであつた。日華事変の始まつた頃、この人は酔ぱらつて、ひどく私に絡んで来たことがある。長い間陸軍技師をしてゐた彼には、私のやうなものはいつも気に喰はぬ存在と思へたのであらう。私はこの人の半生を、さまざまのことを憶えてゐる。この人のことについて書けば限りがないのであつた。
私達は己斐に出ると、市電に乗替へた。市電は天満町まで通じてゐて、そこから仮橋を渡つて向岸へ徒歩で連絡するのであつた。この仮橋もやつと昨日あたりから通れるやうになつたものと見えて、三尺幅の一人しか歩けない材木の上を人はおそるおそる歩いて行くのであつた。(その後も鉄橋はなかなか復旧せず、徒歩連絡のこの地域には闇市が栄えるやうになつたのである。)私達が姉の家に着いたのは昼まへであつた。
天井の墜ち、壁の裂けてゐる客間に親戚の者が四五人集まつてゐた。姉は皆の顔を見ると、「あれも子供達に食べさせたいばつかしに、自分は弁当を持つて行かず、雑炊食堂を歩いて昼餉をすませてゐたのです」と泣いた。義兄は次の間に白布で被はれてゐた。その死顔は火鉢の中に残つてゐる白い炭を連想さすのであつた。
遅くなると電車も無くなるので、火葬は明るいうちに済まさねばならなかつた。近所の人が死体を運び、準備を整へた。やがて皆は姉の家を出て、そこから四五町さきの畑の方へ歩いて行つた。畑のはづれにある空地に義兄は棺もなくシイツにくるまれたまま運ばれてゐた。ここは原子爆弾以来、多くの屍体が焼かれる場所で、焚つけは家屋の壊れた破片が積重ねてあつた。皆が義兄を中心に円陣を作ると、国民服の僧が読経をあげ、藁に火が点けられた。すると十歳になる義兄の息子がこの時わーツと泣きだした。火はしめやかに材木に燃え移つて行つた。雨もよひの空はもう刻々と薄暗くなつてゐた。私達はそこで別れを告げると、帰りを急いだ。
私と次兄とは川の堤に出て、天満町の仮橋の方へ路を急いだ。足許の川はすつかり暗くなつてゐたし、片方に展がつてゐる焼跡には灯一つも見えなかつた。暗い小寒い路が長かつた。どこからともなしに死臭の漾つて来るのが感じられた。このあたり家の下敷になつた儘とり片づけてない屍体がまだ無数にあり、蛆の発生地となつてゐるといふことを聞いたのはもう大分以前のことであつたが、真黒な焼跡は今も陰々と人を脅すやうであつた。ふと、私はかすかに赤ん坊の泣声をきいた。耳の迷ひでもなく、だんだんその声は歩いて行くに随つてはつきりして来た。勢のいい、悲しげな、しかし、これは何といふ初々しい声であらう。このあたりにもう人間は生活を営み、赤ん坊さへ泣いてゐるのであらうか。何ともいひしれぬ感情が私の腸を抉るのであつた。
槇氏は近頃上海から復員して帰つて来たのですが、帰つてみると、家も妻子も無くなつてゐました。で、廿日市町の妹のところへ身を寄せ、時々、広島へ出掛けて行くのでした。あの当時から数へてもう四ヶ月も経つてゐる今日、今迄行衛不明の人が現れないとすれば、もう死んだと諦めるよりほかはありません。槇氏にしてみても、細君の郷里をはじめ心あたりを廻つてはみましたが、何処でも悔みを云はれるだけでした。流川の家の焼跡へも二度ばかり行つてみました。罹災者の体験談もあちこちで聞かされました。
実際、広島では今でも何処かで誰かが絶えず八月六日の出来事を繰返し喋つてゐるのでした。行衛不明の妻を探すために数百人の女の死体を抱き起して首実検してみたところ、どの女も一人として腕時計をしてゐなかつたといふ話や、流川放送局の前に伏さつて死んでゐた婦人は赤ん坊に火のつくのを防ぐやうな姿勢で打伏になつてゐたといふ話や、さうかと思ふと瀬戸内海のある島では当日、建物疎開の勤労奉仕に村の男子が全部動員されてゐたので、一村挙つて寡婦となり、その後女房達は村長のところへ捻ぢ込んで行つたといふ話もありました。槇氏は電車の中や駅の片隅で、そんな話をきくのが好きでしたが、広島へ度々出掛けて行くのも、いつの間にか習慣のやうになりました。自然、己斐駅や広島駅前の闇市にも立寄りました。が、それよりも、焼跡を歩きまはるのが一種のなぐさめになりました。以前はよほど高い建ものにでも登らない限り見渡せなかつた、中国山脈がどこを歩いてゐても一目に見えますし、瀬戸内海の島山の姿もすぐ目の前に見えるのです。それらの山々は焼跡の人間達を見おろし、一体どうしたのだ? と云はんばかりの貌つきです。しかし、焼跡には気の早い人間がもう粗末ながらバラツクを建てはじめてゐました。軍都として栄えた、この街が、今後どんな姿で更生するだらうかと、槇氏は想像してみるのでした。すると緑樹にとり囲まれた、平和な、街の姿がぼんやりと浮ぶのでした。あれを思ひ、これを思ひ、ぼんやりと歩いてゐると、槇氏はよく見知らぬ人から挨拶されました。ずつと以前、槇氏は開業医をしてゐたので、もしかしたら患者が顔を憶えてゐてくれたのではあるまいかとも思はれましたが、それにしても何だか変なのです。
最初、かういふことに気附いたのは、たしか、己斐から天満橋へ出る泥濘を歩いてゐる時でした。恰度、雨が降りしきつてゐましたが、向から赤錆びたトタンの切れつぱしを頭に被り、ぼろぼろの着物を纏つた乞食らしい男が、雨傘のかはりに翳してゐるトタンの切れから、ぬつと顔を現はしました。そのギロギロと光る眼は不審げに、槇氏の顔をまじまじと眺め、今にも名乗をあげたいやうな表情でした。が、やがて、さつと絶望の色に変り、トタンで顔を隠してしまひました。
混み合ふ電車に乗つてゐても、向から頻りに槇氏に対つて頷く顔があります。ついうつかり槇氏も頷きかへすと、「あなたはたしか山田さんではありませんでしたか」などと人ちがひのことがあるのです。この話をほかの人に話したところ、見知らぬ人から挨拶されるのは、何も槇氏に限つたことでないことがわかりました。実際、広島では誰かが絶えず、今でも人を捜し出さうとしてゐるのでした。
底本:「日本の原爆文学1」ほるぷ出版
1983(昭和58)年8月1日初版第1刷発行
初出:「三田文学」
1947(昭和22)年11月号
※連作「夏の花」の2作目。
※「――今も彼女は近所の子供で家屋の下敷になつてゐた姿をさまざまと思ひ浮かべて戦くのであつた。」の文は他の本では次のようになっている。
「定本原民喜全集I」(青土社 1978年8月1日発行)では、「――今も彼女は近所の子供で家屋の下敷になつてゐた姿をまざまざと思ひ浮かべて戦くのであつた。」とされており、「さまざま」ではなく「まざまざ」となっている。
「原民喜全集第二巻」(芳賀書店 初版発行 昭和40年8月15日)でも同様に、「まざまざ」となっている。
※「だが、白昼広島上空を旋回中といふ事態はもう容易ならぬことであつた。」の文は他の本では次のようになっている。
「定本原民喜全集I」(青土社 1978年8月1日発行)では、「だが、白昼広島上空を旋回中といふ事態はもう容易ならぬことではあつた。」とされており、「ことであつた」ではなく「ことではあつた」となっている。
「原民喜全集第二巻」(芳賀書店 初版発行 昭和40年8月15日)でも同様に、「
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