挨拶されました。ずつと以前、槇氏は開業医をしてゐたので、もしかしたら患者が顔を憶えてゐてくれたのではあるまいかとも思はれましたが、それにしても何だか変なのです。
 最初、かういふことに気附いたのは、たしか、己斐から天満橋へ出る泥濘を歩いてゐる時でした。恰度、雨が降りしきつてゐましたが、向から赤錆びたトタンの切れつぱしを頭に被り、ぼろぼろの着物を纏つた乞食らしい男が、雨傘のかはりに翳してゐるトタンの切れから、ぬつと顔を現はしました。そのギロギロと光る眼は不審げに、槇氏の顔をまじまじと眺め、今にも名乗をあげたいやうな表情でした。が、やがて、さつと絶望の色に変り、トタンで顔を隠してしまひました。
 混み合ふ電車に乗つてゐても、向から頻りに槇氏に対つて頷く顔があります。ついうつかり槇氏も頷きかへすと、「あなたはたしか山田さんではありませんでしたか」などと人ちがひのことがあるのです。この話をほかの人に話したところ、見知らぬ人から挨拶されるのは、何も槇氏に限つたことでないことがわかりました。実際、広島では誰かが絶えず、今でも人を捜し出さうとしてゐるのでした。



底本:「日本の原爆文学1」ほるぷ
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