らきかうとは思ひがけぬことであつた。日華事変の始まつた頃、この人は酔ぱらつて、ひどく私に絡んで来たことがある。長い間陸軍技師をしてゐた彼には、私のやうなものはいつも気に喰はぬ存在と思へたのであらう。私はこの人の半生を、さまざまのことを憶えてゐる。この人のことについて書けば限りがないのであつた。
 私達は己斐に出ると、市電に乗替へた。市電は天満町まで通じてゐて、そこから仮橋を渡つて向岸へ徒歩で連絡するのであつた。この仮橋もやつと昨日あたりから通れるやうになつたものと見えて、三尺幅の一人しか歩けない材木の上を人はおそるおそる歩いて行くのであつた。(その後も鉄橋はなかなか復旧せず、徒歩連絡のこの地域には闇市が栄えるやうになつたのである。)私達が姉の家に着いたのは昼まへであつた。
 天井の墜ち、壁の裂けてゐる客間に親戚の者が四五人集まつてゐた。姉は皆の顔を見ると、「あれも子供達に食べさせたいばつかしに、自分は弁当を持つて行かず、雑炊食堂を歩いて昼餉をすませてゐたのです」と泣いた。義兄は次の間に白布で被はれてゐた。その死顔は火鉢の中に残つてゐる白い炭を連想さすのであつた。
 遅くなると電車も無くなるので、火葬は明るいうちに済まさねばならなかつた。近所の人が死体を運び、準備を整へた。やがて皆は姉の家を出て、そこから四五町さきの畑の方へ歩いて行つた。畑のはづれにある空地に義兄は棺もなくシイツにくるまれたまま運ばれてゐた。ここは原子爆弾以来、多くの屍体が焼かれる場所で、焚つけは家屋の壊れた破片が積重ねてあつた。皆が義兄を中心に円陣を作ると、国民服の僧が読経をあげ、藁に火が点けられた。すると十歳になる義兄の息子がこの時わーツと泣きだした。火はしめやかに材木に燃え移つて行つた。雨もよひの空はもう刻々と薄暗くなつてゐた。私達はそこで別れを告げると、帰りを急いだ。
 私と次兄とは川の堤に出て、天満町の仮橋の方へ路を急いだ。足許の川はすつかり暗くなつてゐたし、片方に展がつてゐる焼跡には灯一つも見えなかつた。暗い小寒い路が長かつた。どこからともなしに死臭の漾つて来るのが感じられた。このあたり家の下敷になつた儘とり片づけてない屍体がまだ無数にあり、蛆の発生地となつてゐるといふことを聞いたのはもう大分以前のことであつたが、真黒な焼跡は今も陰々と人を脅すやうであつた。ふと、私はかすかに赤ん坊の泣声をきいた。耳の迷ひでもなく、だんだんその声は歩いて行くに随つてはつきりして来た。勢のいい、悲しげな、しかし、これは何といふ初々しい声であらう。このあたりにもう人間は生活を営み、赤ん坊さへ泣いてゐるのであらうか。何ともいひしれぬ感情が私の腸を抉るのであつた。

 槇氏は近頃上海から復員して帰つて来たのですが、帰つてみると、家も妻子も無くなつてゐました。で、廿日市町の妹のところへ身を寄せ、時々、広島へ出掛けて行くのでした。あの当時から数へてもう四ヶ月も経つてゐる今日、今迄行衛不明の人が現れないとすれば、もう死んだと諦めるよりほかはありません。槇氏にしてみても、細君の郷里をはじめ心あたりを廻つてはみましたが、何処でも悔みを云はれるだけでした。流川の家の焼跡へも二度ばかり行つてみました。罹災者の体験談もあちこちで聞かされました。
 実際、広島では今でも何処かで誰かが絶えず八月六日の出来事を繰返し喋つてゐるのでした。行衛不明の妻を探すために数百人の女の死体を抱き起して首実検してみたところ、どの女も一人として腕時計をしてゐなかつたといふ話や、流川放送局の前に伏さつて死んでゐた婦人は赤ん坊に火のつくのを防ぐやうな姿勢で打伏になつてゐたといふ話や、さうかと思ふと瀬戸内海のある島では当日、建物疎開の勤労奉仕に村の男子が全部動員されてゐたので、一村挙つて寡婦となり、その後女房達は村長のところへ捻ぢ込んで行つたといふ話もありました。槇氏は電車の中や駅の片隅で、そんな話をきくのが好きでしたが、広島へ度々出掛けて行くのも、いつの間にか習慣のやうになりました。自然、己斐駅や広島駅前の闇市にも立寄りました。が、それよりも、焼跡を歩きまはるのが一種のなぐさめになりました。以前はよほど高い建ものにでも登らない限り見渡せなかつた、中国山脈がどこを歩いてゐても一目に見えますし、瀬戸内海の島山の姿もすぐ目の前に見えるのです。それらの山々は焼跡の人間達を見おろし、一体どうしたのだ? と云はんばかりの貌つきです。しかし、焼跡には気の早い人間がもう粗末ながらバラツクを建てはじめてゐました。軍都として栄えた、この街が、今後どんな姿で更生するだらうかと、槇氏は想像してみるのでした。すると緑樹にとり囲まれた、平和な、街の姿がぼんやりと浮ぶのでした。あれを思ひ、これを思ひ、ぼんやりと歩いてゐると、槇氏はよく見知らぬ人から
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