私がこの春帰郷して義兄の事務所を訪れた時のことがまず目さきに浮んだ。彼は古びたオーバーを着込んで、「寒い、寒い」と顫《ふる》えながら、生木の燻《くすぶ》る火鉢《ひばち》に獅噛《しが》みついていた。言葉も態度もひどく弱々しくなっていて、滅《めっ》きり老い込んでいた。それから間もなく寝つくようになったのだ。医師の診断では肺を犯されているということであったが、彼の以前を知っている人にはとても信じられないことではあった。ある日、私が見舞に行くと、急に白髪の増《ふ》えた頭を持あげ、いろんなことを喋《しゃべ》った。彼はもうこの戦争が惨敗に近づいていることを予想し、国民は軍部に欺かれていたのだと微《かす》かに悲憤の声を洩《も》らすのであった。そんな言葉をこの人の口からきこうとは思いがけぬことであった。日華事変の始った頃、この人は酔っぱらって、ひどく私に絡《から》んで来たことがある。長い間陸軍技師をしていた彼には、私のようなものはいつも気に喰わぬ存在と思えたのであろう。私はこの人の半生を、さまざまのことを憶《おぼ》えている。この人のことについて書けば限りがないのであった。
私達は己斐《こい》に出ると、市電に乗替えた。市電は天満町まで通じていて、そこから仮橋を渡って向岸へ徒歩で連絡するのであった。この仮橋もやっと昨日あたりから通れるようになったものと見えて、三尺幅の一人しか歩けない材木の上を人はおそるおそる歩いて行くのであった。(その後も鉄橋はなかなか復旧せず、徒歩連絡のこの地域には闇市《やみいち》が栄えるようになったのである。)私達が姉の家に着いたのは昼まえであった。
天井の墜《お》ち、壁の裂けている客間に親戚《しんせき》の者が四五人集っていた。姉は皆の顔を見ると、「あれも子供達に食べさせたいばっかしに、自分は弁当を持って行かず、雑炊食堂を歩いて昼餉《ひるげ》をすませていたのです」と泣いた。義兄は次の間に白布で被《おお》われていた。その死顔は火鉢の中に残っている白い炭を聯想《れんそう》さすのであった。
遅くなると電車も無くなるので、火葬は明るいうちに済まさねばならなかった。近所の人が死骸《しがい》を運び、準備を整えた。やがて皆は姉の家を出て、そこから四五町さきの畑の方へ歩いて行った。畑のはずれにある空地《あきち》に義兄は棺もなくシイツにくるまれたまま運ばれていた。ここは原子爆
前へ
次へ
全17ページ中14ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
原 民喜 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング