に見舞を云おうと思って隣室へ行くと、壁の剥《お》ち、柱の歪んだ部屋の片隅《かたすみ》に小さな蚊帳が吊《つ》られて、そこに彼は寝ていた。見ると熱があるのか、赤くむくんだ顔を茫然とさせ、私が声をかけても、ただ「つらい、つらい」と義兄は喘《あえ》いでいるのであった。
 私は姉の家で二三時間休むと、広島駅に引返し、夕方廿日市へ戻ると、長兄の家に立寄った。思いがけなくも、妹の息子の史朗がここへ来ているのであった。彼が疎開していた処も、先日の水害で交通は遮断《しゃだん》されていたが、先生に連れられて三日がかりで此処まで戻って来たのである。膝《ひざ》から踵《かかと》の辺まで、蚤《のみ》にやられた傷跡が無数にあったが、割と元気そうな顔つきであった。明日彼を八幡村に連れて行くことにして、私はその晩長兄の家に泊めてもらった。が、どういうものか睡苦《ねぐる》しい夜であった。焼跡のこまごました光景や、茫然とした人々の姿が睡れない頭に甦《よみがえ》って来る。八丁堀から駅までバスに乗った時、ふとバスの窓に吹込んで来る風に、妙な臭《にお》いがあったのを私は思い出した。あれは死臭にちがいなかった。あけがたから雨の音がしていた。翌日、私は甥を連れて雨の中を八幡村へ帰って行った。私についてとぼとぼ歩いて行く甥は跣《はだし》であった。

 嫂は毎日絶え間なく、亡《な》くした息子《むすこ》のことを嘆いた。びしょびしょの狭い台所で、何かしながら呟いていることはそのことであった。もう少し早く疎開していたら荷物だって焼くのではなかったのに、と殆ど口癖になっていた。黙ってきいている次兄は時々思いあまって怒鳴ることがある。妹の息子は飢えに戦きながら、蝗《いなご》など獲《と》って喰《く》った。次兄の息子も二人、学童疎開に行っていたが、汽車が不通のためまだ戻って来なかった。長い悪い天気が漸く恢復《かいふく》すると、秋晴の日が訪れた。稲の穂が揺れ、村祭の太鼓の音が響いた。堤の路《みち》を村の人達は夢中で輿《こし》を担《かつ》ぎ廻ったが、空腹の私達は茫然と見送るのであった。ある朝、舟入川口町の義兄が死んだと通知があった。
 私と次兄は顔を見あわせ、葬式へ出掛けてゆく支度《したく》をした。電車駅までの一里あまりの路を川に添って二人はすたすた歩いて行った。とうとう亡くなったか、と、やはり感慨に打たれないではいられなかった。
 
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