のかな」彼はふと冗談を云っていた。
「この頃ちょっとも腹は立てなかったのに」と妻は真面目《まじめ》そうに応《こた》えた。そのうちに、妻は口の渇《かわ》きを訴えて、氷を欲しがった。隣室で母親は彼に小声で云った。
「もう唾液《だえき》がなくなったのでしょう」
 それから母親は近所で氷の塊《かたま》りを頒《わ》けてもらって来た。氷があったので彼は吻《ほっ》と救われたような気がした。氷は硝子《ガラス》の器から妻の唇を潤おした。うとうとと眼を閉じたまま妻の痛みはいくらか落着いてくるようだった。
 夜はもう更《ふ》けていた。彼は別室に退いて横臥《おうが》していた。が、暫くすると母親に声をかけられた。
「お腹《なか》を撫《な》でてやって下さい。あなたに撫でてもらいたいと云っています」
 彼は妻の体に指さきで触れながら、苦しみに揉《も》まれてゆくような気がした。妻の苦しみは少し鎮《しず》まっては、また新しく始って行った。彼は茫《ぼう》とした心のなかに、熱い熱い疼《うず》きがあった。これが最後なのだろうか。それなら……。だが、今となってはもう妻にむかって改めてこの世の別れの言葉は切りだせそうもなかった。言い残すかもしれない無数のおもいは彼のなかに脈打っていた。妻はまた氷を欲しがった。それからまた吐き気を催し、ぐったりとしていた。
「もう少しすれば夜が明けるよ」
 かたわらに横臥して、そんなさりげないことを話しかけると、妻は静かに頷《うなず》く。そうしていると、まだ妻に救いが訪れてくるようで、もう長い長い間、二人はそんな救いを待ちつづけていたような気もした。そして、これは彼|等《ら》の穏やかな日常生活の一ときに還《かえ》ってゆくようでさえあった。だが、ふと吃驚《びっくり》したように妻は胸のあたりの苦しみを訴えだした。その声は今|迄《まで》の声とひどく異っていた。それは魔にうなされたように、哀切な声になってゆく。愕然《がくぜん》として、彼も今その声にうなされているようだった。病苦が今この家全体を襲いゆさぶっているのだ。
 彼が玄関を出ると、外は仄暗《ほのぐら》い夜明だった。どこの家もまだ戸を鎖《とざ》していたが、町医のベルを押すと、灯がついて戸は開いた。医者は後からすぐ行くことを約束した。
 家に戻って来ると、妻の苦悶《くもん》はまだ続いていた。「つらいわ、つらいわ」と、とぎれとぎれに声
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