を走りつづけ、見馴れた芋畑や崖《がけ》の叢《くさむら》が窓の外に見えて来たとき、外はしきりに雨が降りつづいていた。まるで、それは堪えかねて、ついに泣き崩《くず》れてしまったものの姿だ。こんなにも悲しい、こんなにも悲しいのか、……何が? 冷え冷えとした真暗な底に突落されてゆく感覚が彼の身うちに喰込《くいこ》んで来る。こんなにも悲しい、こんなにも悲しいのか、何が……? この訳のわからぬ感傷は今かぎりのものなのだろうか、やがて別の日が訪れてくれば消え失せてしまうのだろうか……ぼんやりと彼がおもい惑っていると、ぼっと電灯がついて車内は明るくなった。と、灯のついている彼の家の姿が、びしょ濡《ぬ》れの闇《やみ》のなかにもすぐ描かれた。
「お母さん、お母さん」
今、目ざめたばかりの彼はふと隣室で妻のかすかな声をきくと、寝床を出て台所の方にいる母親に声をかけた。それから、その弱々しいなかにも何か訴えを含んでいる声にひきつけられて、彼は妻の枕頭《ちんとう》にそっと近寄ってみた。妻の顔は昨夜からひきつづいている不機嫌《ふきげん》な苛々《いらいら》したものを湛《たた》えていた。だが、それは故意にそうしている顔ではなく、何かもう外界の空気に堪《た》えられなくなり、外界から拒否されたものの姿らしかった。瞼《まぶた》はだるそうに窄《すぼ》められ、そこから細く覗《のぞ》いている眸《ひとみ》はぼんやりと力なく何ものかを怨《えん》じていた。
……一週間前に、妻は小さな手帳に鉛筆で遺書を認《したた》めていた。枕頭に置かれていたので彼も読んでそれは知っていた。けれども、それを認めた妻も読んだ彼も、ほんとうに別離が切迫したものとはまだ信じきれないようだったのだ。
昨日の夕方、電車を降りて彼が暗い雨のなかを急込《せきこ》んで戻ってくると、家には灯のついた病室が待っていた。彼は妻の枕頭に屈《かが》んで「どうだったか」と訊《たず》ねた。
「今日は気分も軽かったのに、お母さんがひとりでおろおろされるので何か苛々しました」
枕頭に食べさしの林檎《りんご》が置いてあった。林檎が届いたら、と長い間持ち望んでいたのだが、注文の荷が届いたときには、これはもう彼女の口にあわなくなっていたのだ。ふと、妻は指の爪《つめ》で唇《くちびる》の薄皮をむしりとろうとした。
「どうしてそんなことをするのだ」
「…………」妻は無言
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