守しようとするものを自ら弱めて行っているのでもあった。(だが、彼の力の絶したところに、やはり死守すべきものがあることだけは疑えなかった)生計の不安や激変の世の姿が今|怒濤《どとう》となって身辺にあれ狂っていた。絶えず忌避していた世間へ、一歩踏込んで行かねばならなかった。「中学生を相手にするのは何だか怕《おそろ》しいようです」そう云う彼を先輩は憐《あわれ》むように眺め、「そんなことはありません、余程あなたは世間を怖《おそ》れているのですね、なあに、やってみるまでのことです」と励ましてくれるのであった。その人の家を辞して帰ってくる途中、家の近くの小駅のほとりで、中年の男が着流しで寒々と歩いている佗《わび》しい後姿を認めた。近所の男であった。ひどい酒癖がはじまると、隣近所に配給酒を乞《こ》うて歩くが、今も巷《ちまた》へ出て乏しい酒を漁《あさ》って帰るところらしかった。寒々とした夕空がかすかに明るかった。
 ……それから間もなく、あの恐しい朝(十二月八日)がやって来たのだった。気を滅入《めい》らす氷雨《ひさめ》が朝から音もなく降りつづいていて、開け放たれた窓の外まで、まるで夕暮のように惨澹《さ
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