になつた。祭壇に飾つてある小村菊夫の写真を見上げると、茫とした白い顔は少し悲しげに微笑してゐるのではないかとおもへた。それから私は母堂に挨拶を述べるとすぐその家を辞した。中野駅の近くまで歩いて来ると、恰度、店頭のラジオがシヨパンらしい清冽なピアノを私の耳に投げかけて来た。
私は小村菊夫と生前たつた一度しか逢つてゐない。それも昨年私が神田の事務所の一室に移れる手筈になつて、引越の荷拵へをしてゐる年末の日だつた。部屋は品物でごつた返してゐたが、罹災以来転々として持運ばれてゐる僅かばかりの品物は、いい加減傷つき汚れてゐて、自分ながら悲惨に見えた。そこへ小村菊夫が訪ねて来たのだ。私は何か軽い狼狽を感じながら、窓の近くに坐をすすめると、彼は背広服のずぼんを端折つてそつと坐つた。その顔のなかには何か緊張と弱々しいものが混つてゐた。
「まだ熱が出たりするのですが、散歩がてらお訪ねしました」
かう云つて彼は持参の原稿を畳の上に置いた。前から私は彼の作品に惹きつけられてゐたので、私たちの同人雑誌に原稿を依頼してゐたのだつた。愛のほの温かさや死の澄んだ瞳を見つめて囁くやうに美しい彼の詩は私にとつて不思議な魅力だつた。私は彼の詩集が上梓されたら是非読んでみたいと思つてゐたので、そのことを話した。
「実は京都の書店から出るはずになつてゐたのですが……」と、彼の顔にいくぶん昂然とした暗さが横ぎつた。それから間もなく彼は坐を立つた。ほんの一寸私の部屋に挨拶がてら一休みしに来たやうな恰好だつたが、私も引きとめはしなかつた。
彼の作品は私たちの雑誌に掲載されだしたが、同人の間では評判が悪かつた。ことに学校を出たばかりの若い人たちは軽蔑と反撥を示した。
(信子はその暗い険の強い美しい横顔を厚志に向けながら「厚志さん、あれは一匹の蝶ではないのよ、二匹の蝶なのだわ……」とかう低く呟いた。厚志の心には、一瞬、羞恥にも似た秘やかな思ひが浮んだ。そして厚志は、その砂丘の上の明るい五月の空の下で、信子の甘い息づかひを、暗い眼ざしを、髪の毛の匂を次第に身近く燃える如く感じたのであつた。)[#底本は「あった)。」]
このやうな作風は兵隊靴の音やサイレンの唸りに、つい昨日まで攪乱されてひき裂かれてゐる心にとつては無縁の世界だつたのかもしれない。
ある日、雑誌の同人会が新宿のある書店の二階の一室で行はれてゐた
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