。だが殆ど毎朝のやうにここで煙草を買ふ。僕は煙草をポケツトに入れてロータリを渡る。舗道を歩いて行く。舗道にあふれる朝の鎮魂歌……。僕がいつも行く外食食堂の前にはいつものやうに靴磨屋がゐる。舗道の細い空地には鶏を入れた箱、箱のなかで鶏が動いてゐる。いつものやうに何もかもある。電車が、自動車が、さまざまの音響が、屋根の上を横切る燕が、通行人が、商店が、いつものやうに何もかも存在する。僕は還るところを失つた人間。だが僕の嘆きは透明になつてゐる。何も彼も存在する。僕でないものの存在が僕のなかに透明に映つてくる。それは僕のなかを突抜けて向側へ飜つて行く。向側へ、向側へ、無限の彼方へ……、流れてゆく。なにもかも流れてゆく。素直に静かに、流れてゆくことを気づかないで、いつもいつも流れてゆく。僕のまはりにある無数の雑音、無数の物象、めまぐるしく、めまぐるしく、動きまはるものたち、それらは静かに、それらは素直に、無限のかなたで、ひびきあひ、結びつき、流れてゆくことを気づかないで、いつもいつも流れてゆく。書店の飾窓の新刊書、カバンを提げた男、店頭に置かれてゐる鉢植の酸漿、……あらゆるものが無限のかなたで、
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