、交叉点にあふれる夕の鎮魂歌……。僕はいつものやうに濠端を散歩して、静かな、かなしい物語を夢想してゐる。静かな、かなしい物語は靴音のやうに僕を散歩させてゆく。それから僕はいつものやうに雑沓の交叉点に出てゐる。いつものやうに無数の人間がそはそは動き廻つてゐる。いつものやうにそこには電車を待つ群衆が溢れてゐる。彼等は帰つて行くのだ。みんなそれぞれ帰つてゆくらしいのだ。一つの物語を持つて。一つ一つ何か懐しいものを持つて。僕は還るところを失つた人間、剥ぎとられた世界の人間。だが僕は彼等のために祈ることだつてできる。僕は祈る。(彼等の死が成長であることを。その愛が持続であることを。彼等が孤独ならぬことを。情欲が眩惑でなく、狂気であまり烈しからぬことを。バランスと夢に恵まれることを。神に見捨てられざることを。彼等の役人が穏かなることを。花に涙ぐむことを。彼等がよく笑ひあふ日を。戦争の絶滅を。)彼等はみんな僕の眼の前を通り過ぎる。彼等はみんな僕のなかを横切つてゆく。四つ角の破れた立看板の紙が風にくるくる舞つてゐる。それも横切つてゆく。僕のなかを。透明のなかを。無限の速度で、憧れのやうに、祈りのやうに、静かに、素直に、無限のかなたで、ひびきあふため、結びつくため……。
それから夜。僕のなかでなりひびく夜の歌。
生の深みに、……僕は死の重みを背負ひながら生の深みに……。死者よ、死者よ、僕をこの生の深みに沈め導いて行つてくれるのは、おんみたちの嘆きのせゐだ。日が日に積み重なり時間が時間と隔たつてゆき、遙かなるものは、もう、もの音もしないが、ああ、この生の深みより、あふぎ見る、空間の壮厳さ。幻たちはゐる。幻たちは幻たちは嘗て最もあざやかに僕を惹きつけた面影となつて僕の祈願にゐる。父よ、あなたはゐる、縁側の安楽椅子に。母よ、あなたはゐる、庭さきの柘榴のほとりに。姉よ、あなたはゐる、葡萄棚の下のしたたる朝露のもとに。あんなに美しかつた束の間に嘗ての姿をとりもどすかのやうに、みんな初々しく。
友よ、友よ、君たちはゐる、にこやかに新しい書物を抱へながら、涼しい風の電車の吊革にぶらさがりながら、たのしさうに、そんなに爽やかな姿で。
隣人よ、隣人よ、君たちはゐる、ゆきずりに僕を一瞬感動させた不動の姿で、そんなに悲しく。
そして、妻よ、お前はゐる、殆ど僕の見わたすところに、最も近く最も遙かな
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