遅れがちに歩いてゐた。その婦人も婦人の夫も僕は何となく心惹かれたが、僕は何となく遠い親戚だらう位に思つてゐた。突然、婦人の夫が僕に云つた。
「君ももう知つてゐるのだね、お母さんの異ふことを」
不思議なこととは思つたが、僕は何気なく頷いた。何気なく頷いたが、僕は閃光に打たれてしまつてゐたのだ。それから僕はザワザワした。揺れうごくものがもう鎮まらなかつた。それから間もなく僕の探求が始つた。僕はその人たちの家をはじめてこつそり訪ねて行つた。山の麓にその人たちの仮寓はあつた。それから僕は全部わかつた。あの婦人は僕の伯母、死んだ僕の母の姉だつたのだ。僕の母は僕が三つの時死んでゐる。僕の父は僕の母を死ぬる前に離婚してゐる。事情はこみ入つてゐたのだが、そのため僕には全部今迄隠されてゐた。僕は死んだ母の写真を見せてもらつた。僕には記憶はなかつたが……。僕の父もその母と一緒に僕と三人で撮つてゐる。僕には記憶がなかつたが……。僕は目かくしされて、ぐるぐるぐる廻されてゐたのだつた。長い間、あまりに長い間、僕ひとり、僕ひとり……。僕の目かくしはとれた。こんどは僕のまはりがぐるぐる廻つた。僕もぐるぐる廻りだした。
僕のなかには大きな風穴が開いて何かがぐるぐると廻転して行つた。何かわけのわからぬものが僕のなかで僕を廻転させて行つた。僕は廃墟の上を歩きながら、これは僕ではないと思ふ。だが、廃墟の上を歩いてゐる僕は、これが僕だ、これが僕だと僕に押しつけてくる。僕はここではじめて廃墟の上でたつた今生れた人間のやうな気がしてくる。僕は吹き晒しだ。吹き晒しの裸身が僕だつたのか。わかるか、わかるかと僕に押しつけてくる。それで、僕はわかるやうな気がする。子供のとき僕は何かのはずみですとんと真暗な底へ突落されてゐる。何かのはずみで僕は全世界が僕の前から消え失せてゐる。ガタガタと僕の核心は青ざめて、僕は真赤な号泣をつづける。だが、誰も救つてはくれないのだ。僕はつらかつた。僕は悲しかつた、死よりも堪へがたい時間だつた。僕は真暗な底から自分で這ひ上らねばならない。僕は這ひ上つた。そして、もう堕ちたくはなかつた。だが、そこへ僕をまた突落さうとする何かのはずみはいつも僕のすぐ眼の前にチラついて見えた。僕はそわそわして落着がなかつた。いつも誰かの顔色をうかがつた。いつも誰かから突落されさうな気がした。突落されたくなか
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