たしは白髪の老教師なのだが。もしわたしに息子があるとすれば、それは沙漠に生き残っている一匹の蜥蜴《とかげ》らしい。わたしはその息子のために、あの置時計を購《か》ってやりたかった。息子がそいつをパタンと地上に叩《たた》きつける姿が見たかったのだ。
 ………………………
 声はつぎつぎに僕に話しかける。雑沓のなかから、群衆のなかから、頭のなかから、僕のなかから。どの声もどの声も僕のまわりを歩きまわる。どの声もどの声も救いはないのか、救いはないのかと繰返している。その声は低くゆるく群盲のように僕を押してくる。押してくる。押してくる。そうだ、僕は何年間押されとおしているのか。僕は僕をもっとはっきりたしかめたい。しかし、僕はもう僕を何度も何度もたしかめたはずだ。今の今、僕のなかには何があるのか。救いか? 救いはないのか救いはないのかと僕は僕に回転しているのか。回転して押されているのか。それが僕の救いか。違う。絶対に違う。僕は僕にきっぱりと今云う。僕は僕に飛びついても云う。
 ……救いはない。
 僕は突離された人間だ。還《かえ》るところを失った人間だ。突離された人間だ。還るところを失った人間に救い
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