く視力がゆるんでしまった。怕《おそろ》しい怕しいことに出喰《でく》わした後の、ゆるんだ視覚がわたしらしかった。わたしはまわりの人混みのゆるい流れにもたれかかるようにして歩いた。後姿はまだチラついたが……。
 わたしはそれでも気をとりなおした。人混みのゆるい流れにもたれかかるようにして歩いて、何処《どこ》へ行くのか迷ってはいなかった。いつものようにデパートの裏口から階段を昇り、そこまで行ったが、ときどき何かがっかりしたものが、わたしのまわりをザラザラ流れる。品物を渡して金を受取ろうとすると、わたしは突然泣けそうになった。金を受取るという、この世間並の、あたりまえの、何でもない行為が、突然わたしを罪人のような気持にさせた。そんな気持になってはいけない、今はよほどどうかしている。わたしはわたしを支《ささ》えようとした。今はよほどどうかしている、しっかりしていないと、何だが空間がパチンと張裂けてしまう。何気なく礼を云ってその金を受取ると、わたしは一つの危機を脱したような気がしたものだ。それからわたしは急いで歩いた。急がなければ、急がなければ、後から何かが追いかけてくる。わたしは急いで歩いている
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