で僕は地獄から脱走した男だったのだろうか。人は僕のなかに死にわめく人間の姿をしか見てくれなかった。「生き残り、生き残り」と人々は僕のことを罵《ののし》った。まるで何かわるい病気を背負っているものを見るような眼つきで。このことにばかり興味をもって見られる男でしかないかのように。それから僕の窮乏は底をついて行った。他国の掟《おきて》はきびしすぎた。不幸な人間に爽やかな予感は許されないのだろうか……。だが、僕のなかの爽やかな予感はどうなったのか。僕はそれが無性に気にかかる。毎日毎日が重く僕にのしかかり、僕のまわりはだらだらと過ぎて行くばかりだった。僕は僕のなかから突然爽やかなものが跳《は》ねだしそうになる。だが、だらだらと日はすぎてゆく。……僕のなかの爽やかなものは、……だが、だらだらと日はすぎてゆく。僕のなかの、だが、だらだらと、僕の背は僕の背負っているものでだんだん屈《かが》められてゆく。

  〈またもう一つのゆるい声が〉

 ……僕はあれを悪夢にたとえていたが、時間がたつに随《したが》って、僕が実際みる夢の方は何だかひどく気の抜けたもののようになっていた。たとえば夢ではあのときの街の屋根がゆるいゆるい速度で傾いて崩《くず》れてゆくのだ。空には青い青い茫《ぼう》とした光線がある。この妖《あや》しげな夢の風景には恐怖などと云うより、もっともっとどうにもならぬ郷愁が喰《く》らいついてしまっているようなのだ。それから、あの日あの河原にずらりと並んでいた物凄い重傷者の裸体群像にしたところで、まるで小さな洞窟《どうくつ》のなかにぎっしり詰め込められている不思議と可憐《かれん》な粘土細工か何かのように夢のなかでは現れてくる。無気味な粘土細工は蝋人形《ろうにんぎょう》のように色彩まである。そして、時々、無感動に蠢《うご》めいている。あれはもう脅迫などではなさそうだ。もっともっとどうにもならぬ無限の距離から、こちら側へ静かにゆるやかに匐《は》い寄ってくる憂愁に似ている。それから、あの焼け失せてしまった家の夢にしたところで、僕の夢のなかでは僕の坐っていた畳のところとか、僕の腰かけていた窓側とかいうものはちょっとも現れて来ず、雨に濡《ぬ》れた庭石の一つとか、縁側の曲り角の朽ちそうになっていた柱とか、もっともっとどうにもならぬ佗《わび》しげなものばかりが、ふわふわと地霊のようにしのび寄っ
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