潮干狩
原民喜

−−
【テキスト中に現れる記号について】

[#]:入力者注 主として外字の説明
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号)
(例)※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]まれて
−−

 前の晩、雄二は母と一緒に風呂桶につかつてゐると、白い湯気の立昇るお湯の面に、柱のランプの火影が揺れて、ふとK橋のことを思ひ出した。恰度、夜の橋の上から両岸の火影が水に映つてゐるのを眺めてゐるやうな気持だつた。明日は父に連れられて、皆で潮干狩に行くのだつた。雄二はまだ船で川を下つたことはなかつた。床に這入つてからも、なかなか睡れなかつた。寝床がそのまま船になつて、闇のなかを進んで行く。だ、だ、だ、だ、と物凄い音がして、雄二は何度も目を覚した。
 朝になると、雄二は積木細工をして縁側で遊んだ。花のついた石榴の梢に麗かな日が射して、いい天気だつた。昼餉が済むと、いよいよ皆は出発の支度をした。貝掻、叉手などを貴磨と大吉は提げ、雄二は小さなバケツを持つた。母と姉は着物を着替へてゐて少し遅れて出て来たが、門口で皆が揃ふと父はK橋の方へ歩き出した。太陽が恰度路の真上にあつて風はなかつた。大吉と貴磨は父を追越すと、洋館建の写真屋の角を廻つて、勝手に進んで行くのだつた。雄二は母と姉に※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]まれてゆつくり歩いてゐたが、兄達が間違つた方角へ行くのではないかと心配した。すると、父も写真屋の角を廻つてしまつた。K橋へ行くのではなささうだつた。やがて雄二達も角を廻つて、小路へ出た。そこは片方に半間幅の溝があつて、溝に添つて、柳の木が遠くまで続いてゐた。
 片方の家には、板の橋や石の橋があつた。溝の泥水のなかに一ところ石油がギラギラ五色に輝いてゐるのを雄二は歩きながら見とれた。太い柳の幹からは、指のやうな草がぶらさがつてゐた。片方は塀を廻らした家や格子のある家が並んでゐてそのなかに一軒カーキー色の日覆を張つた雑貨店があつた。店先の置座に狆が眼を光らしながら雄二を見送つてゐた。ふと向を見ると、何時も雄二の家の前を通る気違の女がやつて来るところだつた。綿の襤褸を着ぶくれて、懐から麦藁を出して編みながら、突出た下唇で何かぶつぶつ呟いてゐる。兄達はもうその気違と擦違つてしまつた。大吉は態と振返つ
次へ
全8ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
原 民喜 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング