、ぶつぶつと何か彼女に囁く。しんしんと募り行く焦慮は彼女の全身を針攻めにする。どこにそんな針があるのか、朝子は自分自身の背中が見たい。実際左の肩の三角筋がぼうと熱をもって疼く。
 それに彼女は台所が気にかかって耐らない。使用もしないのに瓦斯メートルがふと勝手にずんずん廻り出したらどうしよう。鼠が葱を噛って、葱の根に蛞蝓《なめくじら》でも這ってはゐないか。水道の水がボトボト鼻血を流し、柱の火災除けのお守りがかっと口をあけて、焔を吐き出したら。――朝子は台所が急に怖くなって、気になるばかりで、行くことが出来ない。朝子はつまらない魔術に引掛ってしまった自分に立腹する。その額に浮んだ青筋が鏡に映る。
 その青筋だよ――と見えないところで夫の冷かす声がする。
 しかし、この脅迫は何処から来るのだらう。それがただ一時の不安定な感覚の所為だけかしら。……彼女はカチリと或る核心に触れて悶絶したくなる。……信じてはゐても、縋らうとはしてゐても、夫の心はあてにならぬ。薄弱な、利己的な、制限のある男心。それから彼女は夫の苦境に降り注ぐ、世間の悪意を数へる。それらを勇敢に撥かへしもしないで、とかく内攻して鬱ぐ
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