心願の国
原民喜
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【テキスト中に現れる記号について】
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(例)天の※[#「さんずい+景+頁」、第3水準1−87−32、読みは「こう」、229−上−5]気は
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〈一九五一年 武蔵野市〉
夜あけ近く、僕は寝床のなかで小鳥の啼声をきいてゐる。あれは今、この部屋の屋根の上で、僕にむかつて啼いてゐるのだ。含み声の優しい鋭い抑揚は美しい予感にふるへてゐるのだ。小鳥たちは時間のなかでも最も微妙な時間を感じとり、それを無邪気に合図しあつてゐるのだらうか。僕は寝床のなかで、くすりと笑ふ。今にも僕はあの小鳥たちの言葉がわかりさうなのだ。さうだ、もう少しで、もう少しで僕にはあれがわかるかもしれない。……僕がこんど小鳥に生れかはつて、小鳥たちの国へ訪ねて行つたとしたら、僕は小鳥たちから、どんな風に迎へられるのだらうか。その時も、僕は幼稚園にはじめて連れて行かれた子供のやうに、隅つこで指を噛んでゐるのだらうか。それとも、世に拗ねた詩人の憂鬱な眼ざしで、あたりをじつと見まはさうとするのだらうか。だが、駄目なんだ。そんなことをしようたつて、僕はもう小鳥に生れかはつてゐる。ふと僕は湖水のほとりの森の径で、今は小鳥になつてゐる僕の親しかつた者たちと大勢出あふ。
「おや、あなたも……」
「あ、君もゐたのだね」
寝床のなかで、何かに魅せられたやうに、僕はこの世ならぬものを考え耽けつてゐる。僕に親しかつたものは、僕から亡び去ることはあるまい。死が僕を攫つて行く瞬間まで、僕は小鳥のやうに素直に生きてゐたいのだが……。
今でも、僕の存在はこなごなに粉砕され、はてしらぬところへ押流されてゐるのだらうか。僕がこの下宿へ移つてからもう一年になるのだが、人間の孤絶感も僕にとつては殆ど底をついてしまつたのではないか。僕にはもうこの世で、とりすがれる一つかみの藁屑もない。だから、僕には僕の上にさりげなく覆ひかぶさる夜空の星々や、僕とはなれて地上に立つてゐる樹木の姿が、だんだん僕の位置と接近して、やがて僕と入替つてしまひさうなのだ。どんなに僕が今、零落した男であらうと、どんなに僕の核心が冷えきつてゐようと、あの星々や樹木たちは、もつと、はてしらぬものを湛へて、毅然としてゐるではないか。……僕は自分の星を見つけてしまつた。ある夜、吉祥寺駅から下宿までの暗い路上で、ふと頭上の星空を振仰いだとたん、無数の星のなかから、たつた一つだけ僕の眼に沁み、僕にむかつて頷いてゐてくれる星があつたのだ。それはどういふ意味なのだらうか。だが、僕には意味を考へる前に大きな感動が僕の眼を熱くしてしまつたのだ。
孤絶は空気のなかに溶け込んでしまつてゐるやうだ。眼のなかに塵が入つて睫毛に涙がたまつてゐたお前……。指にたつた、ささくれを針のさきで、ほぐしてくれた母……。些細な、あまりにも些細な出来事が、誰もゐない時期になつて、ぽつかりと僕のなかに浮上つてくる。……僕はある朝、歯の夢をみてゐた。夢のなかで、死んだお前が現れて来た。
「どこが痛いの」
と、お前は指さきで無造作に僕の歯をくるりと撫でた。その指の感触で目がさめ、僕の歯の痛みはとれてゐたのだ。
うとうとと睡りかかつた僕の頭が、一瞬電撃を受けてヂーンと爆発する。がくんと全身が痙攣した後、後は何ごともない静けさなのだ。僕は眼をみひらいて自分の感覚をしらべてみる。どこにも異状はなささうなのだ。それだのに、さつき、さきほどはどうして、僕の意志を無視して僕を爆発させたのだらうか。あれはどこから来る。あれはどこから来るのだ? だが、僕にはよくわからない。……僕のこの世でなしとげなかつた無数のものが、僕のなかに鬱積して爆発するのだらうか。それとも、あの原爆の朝の一瞬の記憶が、今になつて僕に飛びかかつてくるのだらうか。僕にはよくわからない。僕は広島の惨劇のなかでは、精神に何の異状もなかつたとおもふ。だが、あの時の衝撃が、僕や僕と同じ被害者たちを、いつかは発狂ささうと、つねにどこかから覘つてゐるのであらうか。
ふと僕はねむれない寝床で、地球を想像する。夜の冷たさはぞくぞくと僕の寝床に侵入してくる。僕の身躰、僕の存在、僕の核心、どうして僕はこんなに冷えきつているのか。僕は僕を生存させてゐる地球に呼びかけてみる。すると地球の姿がぼんやりと僕のなかに浮かぶ。哀れな地球、冷えきつた大地よ。だが、それは僕のまだ知らない何億万年後の地球らしい。僕の眼の前には再び仄暗い一塊りの別の地球が浮んでくる。その円球の内側の中核には真赤な火の塊りがとろとろと渦巻いてゐる。あの鎔鉱炉のなかには何が存在するのだらうか。まだ発見されない物質、まだ
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