それを指で捻り潰してゐた。蟻はつぎつぎに僕のところへやつて来るし、僕はつぎつぎにそれを潰した。だんだん僕の頭の芯は火照り、無我夢中の時間が過ぎて行つた。僕は自分が何をしてゐるのか、その時はまるで分らなかつた。が、日が暮れて、あたりが薄暗くなつてから、急に僕は不思議な幻覚のなかに突落されてゐた。僕は家のうちにゐた。が、僕は自分がどこにゐるのか、わからなくなつた。ぐるぐると真赤な炎の河が流れ去つた。すると、僕のまだ見たこともない奇怪な生きものたちが、薄闇のなかで僕の方を眺め、ひそひそと静かに怨じてゐた。(あの朧気な地獄絵は、僕がその後、もう一度はつきりと肉眼で見せつけられた広島の地獄の前触れだつたのだらうか。)
 僕は一人の薄弱で敏感すぎる比類のない子供を書いてみたかつた。一ふきの風でへし折られてしまふ細い神経のなかには、かへつて、みごとな宇宙が潜んでゐさうにおもへる。

 心のなかで、ほんとうに微笑めることが、一つぐらゐはあるのだらうか。やはり、あの少女に対する、ささやかな抒情詩だけが僕を慰めてくれるのかもしれない。U……とはじめて知りあつた一昨年の真夏、僕はこの世ならぬ心のわななきをおぼえたのだ。それはもう僕にとつて、地上の別離が近づいてゐること、急に晩年が頭上にすべり落ちてくる予感だつた。いつも僕は全く清らかな気持で、その美しい少女を懐しむことができた。いつも僕はその少女と別れぎはに、雨の中の美しい虹を感じた。それから心のなかで指を組み、ひそかに彼女の幸福を祈つたものだ。

 また、暖かいものや、冷たいものの交錯がしきりに感じられて、近づいて来る「春」のきざしが僕を茫然とさせてしまふ。この弾みのある、軽い、やさしい、たくみな、天使たちの誘惑には手もなく僕は負けてしまひさうなのだ。花々が一せいに咲き、鳥が歌ひだす、眩しい祭典の予感は、一すぢの陽の光のなかにも溢れてゐる。すると、なにかそはそはして、じつとしてゐられないものが、心のなかでゆらぎだす。滅んだふるさとの街の花祭が僕の眼に見えてくる。死んだ母や姉たちの晴着姿がふと僕のなかに浮ぶ。それが今ではまるで娘たちか何かのやうに可憐な姿におもへてくるのだ。詩や絵や音楽で讃へられてゐる「春」の姿が僕に囁きかけ、僕をくらくらさす。だが、僕はやはり冷んやりしてゐて、少し悲しいのだ。
 あの頃、お前は寝床で訪れてくる「春」の予感にうちふるへてゐたのにちがひない。死の近づいて来たお前には、すべてが透視され、天の※[#「さんずい+景+頁」、第3水準1−87−32、読みは「こう」、229−上−5]気はすぐ身近かにあつたのではないか。あの頃、お前が病床で夢みてゐたものは何なのだらうか。

 僕は今しきりに夢みる、真昼の麦畑から飛びたつて、青く焦げる大空に舞ひのぼる雲雀の姿を……。(あれは死んだお前だらうか、それとも僕のイメージだらうか)雲雀は高く高く一直線に全速力で無限に高く高く進んでゆく。そして今はもう昇つてゆくのでも墜ちてゆくのでもない。ただ生命の燃焼がパツと光を放ち、既に生物の限界を脱して、雲雀は一つの流星となつてゐるのだ。(あれは僕ではない。だが、僕の心願の姿にちがひない。一つの生涯がみごとに燃焼し、すべての刹那が美しく充実してゐたなら……。)



底本:「日本の原爆文学1」ほるぷ出版
   1983(昭和58)年8月1日初版第一刷発行
初出:「群像」
   1951(昭和26)年5月号

※「その時も、僕は幼稚園にはじめて連れて行かれた子供のやうに、隅つこで指を噛んでゐるのだらうか。」の文は他の本では次のようになっている。
「定本原民喜全集II」(青土社 1978年9月20日発行)では「その時も、僕は幼稚園にはじめて連れて行かれた内気な子供のやうに、隅つこで指を噛んでゐるのだらうか。」とされており、「内気な」という言葉が入っている。
「原民喜全集第二巻」(芳賀書店 初版発行 昭和40年8月15日)でも同様に、「内気な」という言葉が入っている。

※「僕の身躰、僕の存在、僕の核心、どうして僕はこんなに冷えきつているのか。」の文は他の本では次のようになっている。
「定本原民喜全集II」(青土社 1978年9月20日発行)では「僕の身躰、僕の存在、僕の核心、どうして僕は今こんなに冷えきつているのか。」とされており、「今」という言葉が入っている。
「原民喜全集第二巻」(芳賀書店 初版発行 昭和40年8月15日)でも同様に、「今」という言葉が入っている。

入力:ジェラスガイ
校正:砂場清隆
2002年9月20日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランテ
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