ったような安らかさと、これから始ろうとする試煉《しれん》にうち克《か》とうとする初々《ういうい》しさが、痩《や》せた妻の身振りのなかにぱっと呼吸《いき》づいていた。だが、彼はひとり置去りにされたように、とぼとぼと日が暮れて家に戻って来たのだった。
 この時から、二つにたち割られた場所のなかで、彼の逍遥《しょうよう》がはじまった。隔日に学校へ通勤している彼は、休みの日を午後から病院へ出掛けて行くのだったが、どうかすると、学校の帰りをそのまま立寄ることもあった。巷《ちまた》で運よく見つけた電熱器を病室の片隅に取つけると、それで紅茶も沸かせた。ベッド脇に据えつけられている小さな戸棚《とだな》には、林檎《りんご》やバタがあった。いつのまにか、そこは居心地《いごこち》のいい場所になっていたのだ。
 いく日も雨が降りつづいた。粗末な学校の廊下も窓もびっしりと湿り、稀《ま》れにしかやって来ない電車は、これも雨に痛めつけられていたし、電車の窓の外に見える野づらや海も茫《ぼう》として色彩を失っていた。だが、高台の上に立つ、大きな病院の建物は、牢固《ろうこ》な壁や整った窓が下界の雨をすっかり遮《さえぎ》っ
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