きました。水を求めて狂ひまはる瀕死者の叫びは生地獄でした。翌日東練兵場の治療所へ行きますとここでもひどい姿を見せつけられました。炎天の下に放り出されたまま、何の救助をも受けないで死んで行く人人を見るにつけ、もう戦争もおしまひだなと感じました。「兵隊さん助けてえ」と叫ぶ若い女もありましたが兵隊もひどく負傷してゐました。後できけば二部隊(むかしの十一聯隊)は全滅ださうです。西練兵場は死骸の山だつたさうです。何しろ外に出てゐた人は光線でやられたのです。勤労奉仕に出てゐて一村全滅になつたところもあります。人口の七割は死んだやうですが後から変調を来たして死ぬる人を加へるともつと多いいでせう。柳町の長男も九月二日頃、頭髪が脱け鼻血がとまらず躯に斑点が出て重態でしたが、これはどうやら持ちこたへ、今は快方に向つて居ます。本郷の兄の死因もこれと同じだらうと思ひます。元安橋辺が中心地ですから食糧営団あたりに居た人は負傷はしてゐなくても何かいけない影響を蒙つたのでせう(ガスを吸つたといふ人もあります)。幟町も中心地から二粁以内にあり危険区域ですから安心はできません。現に死んで行く人もありますし、助かつてゐる人の方が珍しいのです。僕は軽いかすり疵を受けただけでしたが右の眼の方に少し神経的の異常が生じ時時妙な光線がチラついて困ります。八幡村へ移る時広島の焼跡を通過しましたが全く奇怪な光景でした。銀灰色の廃墟のところどころに配置されてゐる死体はどうも人間離れのしたポーズで赤くふくれ上つてゐるのです。馬なども胴体がひどく膨脹して倒れてゐました。地獄といつてもこれは近代化された姿でせう。戦慄よりもさきに奇怪さにうたれるばかりでした。大体この空襲は不意打でしたので恐怖する暇もなく僕なども平素の臆病にもかかはらず落着いて行動できました。しかし死ぬるのも助かつたのも紙一重の相違でした。
 さて原子爆弾の話はこれ位にしておきませう。毎日よく雨が降りつづくので困ります。ここは食糧事情が悪くて弱らされて居ります。早く汽車に乗れるやうになり何処で暮しても困らないやうになつてくれないかなあと思ふばかりです。僕もなるべく早く都会の近くに栖みたいし、これからは大いに書きたいと思ひます。君の今後の活動も期待して居ります。雑誌も早く読みたいものです。光太からも久振りに便りが来ましたが彼も大いにやるのでせうね。みんなと逢つて話してみたいと思ひます。それでは御元気でゐて下さい。
[#地から3字上げ]十月十二日 原民喜

[#ここから3字下げ]
永井善次郎様
[#ここで字下げ終わり]



[#ここから1字下げ、折り返して2字下げ]
●昭和二十年十月三十一日 八幡村より 松戸市 永井善次郎宛
[#ここで字下げ終わり]
 手紙を出さうと思つてゐたところへ手紙を頂きました。
 先日本郷へ行つて来ましたが、上りも下りも大変な列車で窓から乗り窓から降りるのでした。ことに上りは復員やら朝鮮帰りの旅客で目もあてられないやうな暗さでした。本郷でも恰度八百三さんが家族をつれて帰つて来たところでした。こんどは分家で大変お世話になりました。
 昨日は城谷の葬式でした。城谷の家から一キロ離れた焼場には白骨がゴロゴロしてゐる叢で、そこに棺もなく家屋の破片をたきつけとして、夕暮、火はしめやかに燃えて行きました。電車が無くなると云ふので早目にひきあげ、土橋へ出る川の堤をとぼとぼ歩いてゐると、あたりは灯一つ見えない焼野で、まだ死臭がかすかに漾つてゐるやうでしたが、ふとその真暗なところから赤ん坊の泣声が洩れて来るのにははつとしました。(よくありさうな話ですがこんなことはやはり書きたい気持をそそります)
 僕も早く仕事に没頭できる環境が得たく(現在の住居では十人家族なので本を読むのも容易ではありません)心を悩まして居ります。先日も勝美さんに一寸お願ひしておいたのですが、忠海辺へ下宿でもあればと思つて居ります。東京近辺でも適当な下宿さへあれば早く出たいと思つて居りますが、これは金とも相談しなければならないでせう。刻々に変つてゆく現象をもつと接近した場所で貪り見たいといふ欲望と、この際しつかり腰を据ゑて仕事の土台をきづきたい気持とが裏表になつて居ります。
 雑誌の計企[#「企」に「ママ」の注記]順調に進展してゆくことを祈ります。新年号といへばもうすぐでお忙しいことでせう。そのうち僕にも寄稿させて下さい。お願ひしておきます。文学新聞もいいプランだと思ひます。この方は月二回位の発行なのですか。
 光太は元気ですか。この前教文館の傍で出逢つた時のやうに、てらてらと精力的な容貌をして居りますか。僕は彼の詩集が上梓される日を待望して居ります。片仮名の横組の大型の異色あるものが出来上るでせう。尤も彼はこの際もつと書きたしたい気持を持つかもしれませんが。
 文壇もちよつとした原子爆弾を見舞はれた形だね――と光太は云つて寄来しましたが面白い比喩だと思ひます。火を消さないで持ちこたへた人は多いいやうで、案外少いのではないのでせうか。若くて戦禍に巻込まれた人達が立ちあがるのもまだ将来のことでせう。それにつけても特に啓蒙的の方面で貴兄たちの奮闘を祈ります。
 和木夫妻は南京でどうしてゐるのかさつぱりわかりません。村岡は満洲に居るらしいです。美樹は九月のはじめに復員して帰つて来ました。罹災者たちの世話焼に大童でよく活躍してくれますが母親との折合は悪く早く上京したいと嘆息もして居ります。廿日市に疏[#「疏」に「(ママ)」の注記]開してゐた兄の方は今も何不自由なく暮して居り、むしろ焼けぶとりらしく、いづれ一旗あげると気をよくして居ります。ところが恭子などは、闇の話にのぼせ日夜前途の不安に脅えてべちやくちやと僕の傍で喋べくるのですからかなひません。
 この辺でペンを擱きます。
 十一月にはお逢ひしたいものですね。お元気で。
[#地から3字上げ]十月三十一日 原民喜

[#ここから3字下げ]
永井善次郎様
[#ここで字下げ終わり]



[#ここから1字下げ、折り返して2字下げ]
●昭和二十年十一月二十四日 八幡村より 松戸市 永井善次郎宛
[#ここで字下げ終わり]
 御手紙拝見。長篇を書いてゐるのですか、それは前から、プランされてゐるものでせうね。僕もそろそろ長篇を手がけたいと思ひますがまだプランは建ててゐません。光太が詩の雑誌を来秋あたりからやりたいと云つてゐますが現在のところ組代など大変なものでせうね、一度逢つて印刷のことなどお訊ねしたいと思つて居ります。先日熊平兄弟を訪ねました、二人とも健在、木下も助かつて居ました。音楽学校の先生をしてゐた岡田二郎君は死亡しました。
 雑誌の原稿、十二月二十日が締切だと少し急だと思ひますが出来たら御送り致しませう。原子爆弾のことはあの直後早速書き上げてみましたが、読返してみるとどうも意に満たないのでこれはもつと整理してから発表したいと思ひます。
 ここへ美樹が疏[#「疏」に「(ママ)」の注記]開させておいたトルストイ全集があるので時折ひらいてみてゐますが、「饉餓に関する論文」などに興味をひかれ勝ちです。トルストイも研究するとなれば大変なしろものですね。
「冬の日」で光彩を放つてゐる杜国と荷兮のうち、杜国の抒情味もさることながら、荷兮の作家的手腕にこの頃また今更のやうに感心してをります。この荷兮といふ男はどうした男なのでせうか。俳句の方はそれほどでもないのに、連句のつけのあざやかさ。
 先日宮島へ行つてみました、ここも水害でやられてをりますが紅葉は綺麗でした。あまりみごとだつたので、その葉を拾つて帰りました。
 広島は己斐駅のあたりが賑やかになり、バラツクの食堂が建つて居ります。物価は東京とあまり違はないのではないかと思へる位です。乞食もだいぶ居るやうです。
 十二月にはお目にかかれるでせう。元気で帰つて来なさい。
[#地から3字上げ]十一月二十四日 原民喜

[#ここから3字下げ]
永井善次郎様
[#ここで字下げ終わり]



[#ここから1字下げ、折り返して2字下げ]
●昭和二十年十二月十二日 八幡村より 松戸市 永井善次郎宛
[#ここで字下げ終わり]
 お変りありませんか。
 新しい原稿書きかけたのですが纏らないので原子爆弾の方を速達で送つておきました。十七字十二行になつて居て字もきたなく意に満たない個所もありますが、適当に御取扱ひ下さい。
 本郷へはまだおいでになりませんか。
 寒くてやりきれない年末がやつて来ます。
[#地から3字上げ]十二月十二日 原民喜


[#ここから2字下げ]
  原子爆弾  即興ニスギズ

夏の野に幻の破片きらめけり
短夜を※[#「血+卜」、256−3]れし山河叫び合ふ
炎の樹雷雨の空に舞ひ上る
日の暑さ死臭に満てる百日紅
重傷者来て飲む清水生温く
梯子にゐる屍もあり雲の峰
水をのみ死にゆく少女蝉の声
人の肩に爪立てて死す夏の月
魂呆けて川にかがめり月見草
廃虚すぎて蜻蛉の群を眺めやる
[#ここで字下げ終わり]



[#ここから1字下げ、折り返して2字下げ]
●昭和二十年十二月二十八日 八幡村より 松戸市 永井善次郎宛
[#ここで字下げ終わり]
 拝復 十七日日附の端書拝見。なるほど検閲といふこともあつたのですね。別便で別の原稿送つておきますから読んでみて下さい。この「雑音帳」は原稿が間にあはなかつた時の用意にと思つて清書しておいたものです。
 阿佐ヶ谷の方はあまり焼かれてゐないのですか。自炊生活も容易ではないでせう。僕もこちらでは皆からだんだん厄介者扱にされ、再婚せよとすすめられて居りますが、そんな気にはなれず、飢ゑと寒さにふるへながら暮して居ります。一そこの地を離れて何処かもつと住みよい処へ移りたいのですが、汽車は当分駄目だといふことだし、そんなことをきかされるとひどく気が滅入つてなりません。東京の近くで月三百円位でおいてくれる所はないでせうか。参考までに東京の下宿料がわかつたらお知らせ下さい。この間原製作所の解散式がありましたが商人達の云ふことには、今後は百姓になるかそれとも闇屋になるかしなくては、暮しては行けないと申しますが、誰も彼も闇屋になつたのではどうなるのでせうか。こちらで今をときめいて居るのは闇屋ですが「大きな商売をして居ります。なにしろ月三千円生活費がかかりますしね」などうそぶいて居ります。己斐駅と広島駅の前には闇市が賑はひ、僕も時に見物に行きます。蜜柑が自由販売でいくらでも買へるので、僕はすつかり蜜柑党になつてしまひました。
 生活も押つめられるので、今のうち就職でもして暮らさうかと思つたりそれとも一年間位はこの地を離れたところで、英気を養つておきたいとも思ふのですが、なかなか目鼻がつかず今年も虚しく八幡村で終るかと思ふと佗しいことです。ヴアレリーのスタンダールを読返してみて、さうだつた、もつと元気を出さうと云ふ気持にされました。
 御自愛を祈ります。よき年を迎へ給へ。
[#地から3字上げ]十二月二十八日 原民喜

[#ここから3字下げ]
永井善次郎様
[#ここで字下げ終わり]



[#ここから1字下げ、折り返して2字下げ]
●昭和二十一年二月五日 八幡村より 東京都杉並区阿佐谷六ノ九三 永井善次郎宛
[#ここで字下げ終わり]
 御手紙有難う。御無沙汰してゐましたが先日本郷へ行つたので、あなたのことも承知してをりました。会へなかつたのは残念でした。先日は近代文学を昨日は文学時標をたしかに拝受致しました。久しぶりに雑誌らしいものを読めたので何だか昂奮しました。もつともその前に展望一月号は読んでゐましたが近代文学の方が同人雑誌としての親しみや張りがあり頼もしく思ひました。あなたの小説は今後あれをどういふ風に切りひらいて行くか、かなり神経をなやまし苦吟を要するのではないかと予想されました。どうか頑張つて完成させて下さい。光太の詩は韻律といふか言葉の発展といふかさういふ点で僕には驚異です。作家案内はなかなか気のきいた企劃だと思います。継続して百人位
前へ 次へ
全4ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
原 民喜 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング