。僕にとつて二年間もつづいた飢餓感覚は今もまだ僕を脅かしてゐるのだが、僕はその黄色なものの存在に対して子供らしい安心感を抱くやうになつた。ところが、僕の周囲で忙しげに食事をしてゐる人たちは、どうかすると、その団子だけをテーブルの上に放り出して行く。(さうだ、彼等はとにかく僕よりはましな暮しをしてゐるのだな)と僕は時々その見捨てられた団子の数に驚かされる。ここへ集まつて来る人々は細つそりと生気ない顔をした仲間と、てらてら卑しげな表情の連中とが水と油のやうに、しかし、まぜごちやになつて並んでゐる。僕は朝夕の行列の中で、ふと淋しげな眼の色の婦人を見かけたことがある。大きな通勤カバンを抱へたその婦人は朝の食堂で昼の食糧を弁当箱に詰め込んでゐた。だが、ここへ集まつて来る婦人は大概、爪さきを真紅に染めた若い女たちだ。さうした女たちはもう放縦なポーズが身についてゐるのか、壁とテーブルの間の狭い通路は席のあくのを待つ人々で一杯なのに、椅子を壁に凭掛けて脚をテーブルの上にやり何かを嘲けるやうに身を反りかへしてゐる。
 僕は食堂を出てアスフアルトの道路の方へ歩いて行く。軒の密集した小路から、そこへ出ると、暑い陽光が一杯あふれ、風はしきりに吹いて来る。この道路は駅のガードの方へ通じる路で、時間も空間もすべて一つの方向から他の方向へ流されてゐるやうだ。僕はたしかに、はつきりとそれを感じる。だが、僕の現実の視覚のすぐ裏側には、今この道路が忽ちバラバラに粉砕されてしまふ。破片だ、――結局ここも何か惨劇の跡の破片なのだ。……だが、僕の踏んでゐる惨劇の破片の道路と道路の上の空は今、ピンと胸を張つて駅のガードの方へ一つの意欲の如くつづいてゐるではないか。結局、僕の方がここへ迷ひ込んで来た破片なのだ。……だが、もう一度、僕はピンと張つた青空の向ふに眼をやると、この道路のはるか向ふに、何か小さなものがピカリと閃く。と、一ふきの風に散りうせてしまふ奇怪な地球壊滅の全景が見えてくるのだ。
 かうして僕のうちには絶えず窈かに静かな惨劇が繰返されてゐるのだが、僕はいつのまにか駅のあたりまで来てゐる。道路が駅のところへ来ると、急に焼跡の新世界が展がり、人々の流れは戦災者の渦のやうに息苦しくなる。流れてゐる、流れてゐる、人々はまだ的もなく押流されてゐる。と、ガード下のトラツクに袋を抱へたどす黒い男女が警官たちに包囲されて無理矢理に一人づつ車上に積込まれて行く。が、たちまち人々の流れはそんな光景を黙殺して露路から露路へ入込んで行く。露路から露路へ、僕も乞食のやうな足どりで歩いてゐる。戦災と飢ゑと宿なしがいたるところに流れてゐる。ぞろぞろと人波は向ふの方からもやつて来る。
 しかし、どうかすると、僕は何かはつとする。たしかに、ダイヤモンドのやうなものが、樹木の多い露路の人混みのなかから、たしかに、こちらを射てゐる。あれは一たい何なのだらうか。なにものが僕を射るというのであらうか。それは何か思ひちがひのやうにも思へるのだが、だが、たしかに今も地上にはそんな美しいものが存在してゐるのかもしれない。
 僕は甥から部屋を早く立退いてくれと催促されてゐた。近いうちに彼は友人を一人連れて帰るので、どうしてもそれ迄に僕にここを出てくれと云ふのだつた。初めの約束もあつたし、僕はこの部屋に移つた時からも絶えず貸間はさがしてゐた。週に二度出掛けて仕事を貰つて来る出版社の人々にも極力頼んでみた。できるかぎり僕の数少ない知人から知人をめぐつて部屋のことを哀願してはゐた。が結局、金を持つてゐない僕にとつて、殆どそれは絶望的といふよりほかなかつた。どうかすると、僕は自分の部屋でもないこの部屋に(もつとも、さうでもするより他はなかつたのだが……)うつかり安定感を抱きかけてゐた。しかし、甥の要求の手紙は度重なり、その調子もだんだん激越になつてゐた。僕はそろそろ逃亡の準備をしておかねばならなかつた。
 ある日、たうとう甥はこの部屋に戻つて来た。学生服の甥は部屋の障子をあけると、黙つて廊下の外に立ちどまつてゐた。僕はその顔を見た瞬間はつとして、あ、これはもう駄目だな、と思つた。それはもう顔とも云へない位、怒りにはち切れさうな顔だつた。こんな風な顔なら、僕にはいくつも思ひあたることがあるのだ。甥は廊下の外に立つてゐるもう一人の学生服を顧みて、「はいれよ」と云つた。友人らしいその男は部屋に入つて来ると、僕に軽く会釈した。僕は甥に何とか言葉を掛けようと思つてもぢもぢした。だが、甥の顔の筋肉は硬直してピリピリ痙攣してゐた。
「もう二三日待つてくれないか、とにかくもう二三日」僕は漸くこれだけ云ふと、やがてその部屋を出て行つた。いや、僕が部屋を出たといふより、痙攣が僕をあの部屋から押出したのだ。僕は密集した軒の小路を抜けて、広
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