の薄暗い芥箱のやうなアパートの建物を抜けて外に出ると、あたりは陰気な雨の巷であつたが、それでも外の光線や空気がすつと爽やかに感じられた。
 返事を少し待つてもらふことにしたが、僕は怯気づいてゐる気持を強ひて鞭打たなければならなかつた。どんな陰惨な建物だらうが、暗い環境だらうが、とにかく自分の部屋として、いくらかの空間が与へられれば、それでいいではないか。さうすれば、その部屋[#「部屋」に傍点]の中に何ものにも侵されない僕の部屋[#「部屋」に傍点]を持つことができるのだ。だが、やはり最初あの部屋の入口に佇んだ時の、あのもぢやもぢやとした濁つた気味のわるいものが、どうにもならなかつた。僕はどう決めていいのか思ひ惑つてゐた。……朝がた僕は奇怪な夢をみた。アパートの部屋のあのもぢやもぢやとした真黒い塊りが一瞬、電撃のやうに僕の頭のなかに再現したかとおもふと、「あれは、泥棒の巣だ」と、はつきりした声が聴きとれた。僕は妙に胸苦しく脅えた感覚に突落されてゐた。
 朝の外食を済ませて部屋に戻ると、甥から電報が来てゐた。
〈アサツテカヘル〉
 僕には殺気立つた甥の顔が目に見えてくるやうだつた。もはや躊躇してゐる際ではなかつた。僕は早速外出した。出版社に立寄つて、前から申込んである前借の金を頼んだ。金はその時、都合よく融通してもらへた。一万円の包みを受取ると、僕はとにかくめさきが少し明るくなつた。それから、その足で土地会社へ立寄つた。もの馴れ顔のブローカーは僕の来るのを待つてゐたかのやうな顔つきだつた。
「まだ少し不審があるのですが、あんな風な条件で約束しても、ほんとに相手は他へ移る的があるものかどうか」
「さあ、それはあの人も子供まである婦人ですし、まさか大それたことはしないでせう。何でも借金の期限に追はれてゐるやうで、話は急いでゐるやうです。誰でもいいから約束する人を見つけてくれと今朝もやつて来ました」ブローカーは慎重さうな顔つきで更につけ加へた。「とにかく、相手の身元をはつきり確かめておきなさい。米穀通帳なり金融通帳なり見せて貰つて控へておけば大丈夫でせう」
 僕はまだ割り切れないものがあつたが、その足でアパートの部屋を訪れた。入口に立つたとき昨日と変つて、部屋は稍※[#二の字点、1−2−22]すつきりした(少くともそう感じようとする気持が僕にあつたのかもしれない)感じだつた。部屋には昨日の若い女がひとり壁に凭掛つてゐた。
「少しは広々したでせう。今朝、箪笥を売払つてさつぱりしたところなのです」
 女は自嘲的な調子で狭い部屋を見廻した。それはやはり何かに追つめられてゐるものの顔だつた。
「子供は母が郷里へ連れて帰りました。これからはほんとに新規蒔直しでやるつもりです」
 僕は米穀通帳のことを持ち出した。
「あ、身許調査ですか」と、女は汚れた通帳を取出して僕の前に展げた。ずらりといろんな姓名が記入してあるなかから杉本花子といふところを指して教へてくれた。その通帳の住所は福島県になつてゐた。女はそのことを弁解しだした。
「以前はここで配給とつてゐたのですが、田舎の方が欠配もないし、ずつといいので、あちらへ移したのです。だから、お米はあちらから背負つて運んでゐるのです」
 僕には何だかよく事情がわからなかつた。すると女はこんなことを云ひ出した。
「あなたの荷物は沢山おありなのですか。明日あたり私はここを引揚げるつもりですが、ただ少しお願ひがあるのです。目ぼしい荷物は持つて行きますが、この鏡台とか押入の行李などは当分ここへ置かして下さいませんか。どつちみち間代は当分私の方から管理人へ払ひます」女はもう僕がここを借りることにしているやうだつた。
 その夕方、土地会社の男が僕を訪ねて来て、僕の返事を求めた。僕はまだ何とも決心がつかなかつた。するとまた翌朝、土地会社の男はやつて来た。何しろ相手は急いでゐるのだから手金だけでも今日中に渡してやつてくれ、でなければ話を他へ持つて行くと急かしだした。たうとう僕はその申込を承諾した。彼が帰つて行くのと入れ違ひにアパートの女が金を受取りに来た。女は金を受取ると、それでは早速今日のうちに荷物を少し運んで頂きたいと云ひだした。僕はいま荷物を向ふへ運んでみたところで、まだどうにもならないだらうと思つた。あまり気はすすまなかつたが、とにかく行李を一箇だけその部屋に運んで行つた。……その部屋の片隅に僕の行李が置かれると、僕といふ存在はひどく中途半ぱな気持にされてしまつた。だが、こんな風な困難な状態も焼け出されの僕にとつては止むを得ないことかのやうにおもへた。
 翌日は残金を渡して、一応とにかく部屋を開渡してもらふ約束だつた。僕が約束の時刻に訪ねて行くと、部屋はいろんな荷物でごつた返してゐた。
「ああ、くたびれた」と女は大きな
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