がはりに使用してゐる石油箱の上の灰皿がガタンと落ちた。重ね重ねの失策に僕はもう茫然としてしまつた。
 その翌朝はねばつこい烈風が日の光を掻き廻してゐて、恰度あの引越を言渡された厭な日とそつくりの天気だつた。僕はおそるおそる階段を降りて行つた。部屋の隅の椅子に腰掛けてゐたその家の主人と細君と弟の話は急に杜切れ、細君は石のやうな表情でつんと立上ると奧の部屋に消えてしまつた。それから、思ひきり力一杯ドアを閉める音がした。
「風あたりがひどいよ」
 主人が僕のぼんやり立つてゐるのを見て呟くと、細君の弟はちよつと薄ら笑ひをした。僕は何事かを了解した。瞬間、僕にはこのガラスの家がバラバラになつて頭上に崩れ墜ちたやうに思つた。それでゐて、僕の足もとを流れてゐるのは生温かい、そして妙に冷たいところのある気体だつた。僕はぼんやりした儘おづおづとしてゐた。何事かを弁解しようとすれば、唇のあたりが徒らに痙攣しさうになるのだつた。……かうして、僕はこの家の主人にも細君にも謝罪する機会を逸してしまつた。この家の主人が社用で遠方に出かけてから、僕にはまだ一通のたよりも来なかつた。

 僕は部屋に寝そべつて、出勤までの時間をぼんやりとしてゐる。かうして僕がここにゐるといふことは、一刻ごとに苛責の針を感じながら、つい僕の頭にはとてつもない夢想ばかりがはびこり勝ちなのだ。ふと、細目にひらいた窓の方を眺めると、向の畑の枝に残つた糸瓜が一つ、ふらふらと揺れてゐる。……時は流れた。ほんとに時は流れ去つてしまつた。僕はもつと恍惚した気分で、以前こんな時刻にめぐり合はなかつただらうか。お前と死にわかれる年の秋まで、何度僕はこんな風な小さな眺めのなかに時の流れを嘆じただらう。家の窓のすぐ外に糸瓜はみのり、それがさわさわと風に揺れてゐた。あれは、まだその儘、いたるところに残つてゐるではないか。
 ――と、何かひつそりとした影が、僕の見てゐる窓の下を横切る。殆ど何の音もたてず、黙々と今、畑のところを通りすぎて行くのは、長い鍬を肩にになつて前屈みの姿勢で重苦しく、ゆつくりと歩いて行く老人だつた。人間とも思へない位、これは不思議な調子の存在だ。だが、忽ち僕はあの鍬で脳天を叩き割られてゐる自分に脅える。谷間に似たこの附近一帯には陰々として怨霊の気が立罩めてゐるのだらうか。……耳を澄してゐると、階下にゐる家の細君の足音がわかる。ドアが開いて、今どうやら奧の間へ引込んだらしい。今のうちに、僕が外へ出かけて行くなら顔を逢はせなくて済む。さうだ、今のうちに……。



底本:「日本の原爆文学1」ほるぷ出版
   1983(昭和58)年8月1日初版第一刷発行
※連作「原爆以後」の3作目。
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:ジェラスガイ
校正:門田裕志
2002年9月20日作成
青空文庫作成ファイル:
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