僕はできるだけ気を鎮めるために、毎日きめて英文法の本を読んだ。すると、体系とか秩序とかいふものが妙に慕はしかつた。小さな板敷の部屋にコチンと坐つて朝の光線のなかで書物を展げてゐると、窓の外の若葉や朝空は、とにかく、まだ生活に潤ひのあつた頃のつづきのやうにおもへた。僕は漠然とバランスのことを夢みる、……青葉の蔭に据ゑられてゐる透明な大きな秤を。……だが、さういふ一寸した悦ばしい観念が自分のなかに湧いて来ると、あ、お前のせゐだな、と僕はすぐ気がついた。お前はまだ何処かからこちらを覗き込んでゐたし、僕は母親に見守られてゐる幸な子供のやうな気持にされた。
 佗しい朝の食事の後では忽ち猛烈な空腹感が襲ひかかつて来る。ふらつく僕の頭はするすると過ぎ去つた遠い昔の朝のことを考へた。子供のとき食べた表面を桃色の砂糖で固めたビスケツト、あんなお菓子や子供の味覚が今では何か幸福の象徴のやうにおもへだす。それから僕は銀の匙や珈琲セツトを夢みる。すると、一瞬満ちたりた食後の幻想が僕を掠めるのだつた。
 しかし、この家におしかかつて来る飢ゑのくるめきは、次第にもうどうにもならなくなつてゐた。生暖かい白つぽい細雨が毒々しい樹木の緑を濡らし、湿気は飢ゑとともに到る処に匐い廻つた。そして、煙が、家の中で薪や紙を焚くので、煙はいつまでも亡霊のやうにあちこちに籠つてゐた。……僕の頭も感じてゐることもすべてもう夕暮のやうに仄暗かつた。どこかで必死に歯を喰ひしばつてゐる人間の顔がぼんやり泛かぶ。と、つぎつぎに死んでゆく人の群や、呻きながら、静かに救ひを求めながら路上に倒れたまま誰からも顧られない重傷者の顔が……あの日の惨劇がまだその儘つづいてゐるやうであつた。
 ふと見ると、この家の細君がびしよ濡れの姿で外から帰つて来た。その土色の顔には殺気のひいた無気味さが漲つてゐる。彼女はぺたんと椅子に腰を下すと、
「撲られた」と、乾ききつた声で云つた。それから、隣組の女同志の争ひについて、いきまいて喋りだした。が、僕には少し耳が遠いやうな感じで、何が何だかはつきり分らなかつた。配給ものの量についての説明を彼女が追求してゐると、いきなり隣にゐた大女が撲りつけたといふ、それだけしか事情は呑みこめなかつた。……再び僕は薄暗い雨の思惟に鎖されてゐた。泥べたの上でずぶ濡れになり争ひあつてゐる女の姿が雨の中のスパアクのやうにおもへた。
 それから二三日後のことであつた。
「もう起きてごそごそ動かないことです。義夫さん、寝てゐなさい、寝てゐなさい、食糧の配給があるまでは寝てゐなさい」
 この家の細君のひきつつた声に、その弟はのつそりと階段を昇つて行つた。それは恰度、僕がみじめな朝食を済ませた時であつたが、やがて僕も何かに脅かされたやうな気分で自分の部屋に引込んで行つた。ドアをあけて自分の部屋に入らうとしたとたん、僕は細目に開いてゐる窓から隣家の庭さきが見えた。青いひつそりとした葉蔭に紫陽花の花が咲いてゐて、縁側の障子はとざされてゐた。(紫陽花の花が咲いてゐるのか)僕はふと幸福をおもひださうとしてゐた。
 その翌朝だつた。雨雲の切れ目から、陽の光とねばつこい風が吹きつけて、妙に人をいらいらさせる朝だつた。たまたま僕は煙草を持つてゐたが、マツチがなかつた。佗しい食後の空腹状態で、無性に僕は煙草が吸つてみたくなつた。僕はじりじりしながら、ポケツトの隅々を探した。それから、ふとレンズを思ひついた。太陽の光線で点火することは罹災後寒村にゐた頃からやつてゐたことなのだ。僕は表へ出ると、その家の空地の陽のよくあたりさうな処を選んだ。薄雲が流れてゐて、なかなか火は点かなかつた。空地のすぐ向は他所の畑になつてゐたが、その境に暫く僕は佇んでゐた。家のすぐ前では配給ものの菜つぱを囲んで隣組の女たちが集まつてゐた。漸く煙草に点火すると、僕は吻として疲れながら屋内に戻つた。それから僕はそのことを細君から云はれる瞬間までは、自分のしたことを忘れてゐたのだが……。昼の食事に僕は階下に下りて椅子に腰かけた。すると、この家の細君がすぐ僕の側の椅子に腰をおろし、前屈みの姿勢でにじり寄つて来た。
「あんた、部屋移つたらどう」
 ぽつんと放たれた言葉で、僕はまだ何のことかよく分らなかつた。見ると、相手はもつと何か切出さうとして、いらいらしてゐる表情だつた。
「どこの部屋に移るのです」
「他所へ越してもらひたいのよ」
 僕は全く混乱してしまつた。殆ど息も塞がりさうになり、僕の心臓が急にぐつと搾縮されてゐることがわかつた。ふと見ると、細君の額には、じりじりと汗の玉が浮んでゐた。あ、今日は少し蒸暑いから気持がいらいらするのだな、瞬間、僕はそんな物凄い顔つきをしてゐる相手を気の毒におもつた。
「私はね、一度命令したことに背く奴は徹底的に憎悪してやります」
「どんな間違を僕が犯したのですか」僕は青ざめて聞きかへした。
「今朝あなたは畑のところで何をしてゐたのです」
 漸く僕には少し意味がわかつて来た。いつだつたか、理由は分らなかつたが、あまり家のまはりを出歩いてはいけないと言ひ渡されたことが、たしかにあつたやうだ。僕は煙草のことを説明しようと思つたが、言葉にはならなかつた。
「あなたが普通の人間でないことを知つてゐる人ならかまひませんが、何も知らない人はみんな吃驚しますよ。子供があきれて、あなたを見てゐました。この近所の子供は私がたつた一言、『あれはキチガヒだ』とそそのかせば、今後あなたを見るたびに石を投げます」
「………………」
「それに、あの畑の持主は、いつでも物蔭から見張りしてゐて、少しでも怪しげな奴が立つてゐれば、いきなり鍬で撲りつけます。つまりあなたは撲り殺されたいのですか」
 僕はもう平謝りに謝るより他はなかつた。黙つたまま細君は漸く椅子を離れた。
 僕の心臓はゆさぶられ、打ちのめされてしまつた。自分の部屋に戻ると、暫くごろんと寝転んでゐたが、何かに急きたてられ、さうだ、かうしてはゐられない、と立上つた。かうしてはゐられない、……とにかく、なんとかしなければ、と僕は何か的があるやうに外出の用意をした。といつて、何処にも行く場所はなかつたし、出勤の時間はまだ早かつたが、僕はいつものやうに電車に揉みくちやにされてゐた。……僕は思考力を失つてゐた。心臓ばかりがゆさぶられ、脅え上つて一睡もしようとしない神経があつた。昼間の衝撃が緩い緩い速度で回転してゐる。と思ふと、突然、路上に放り出されて喘いでゐる自分を見出すのだ。炎天の焔の中で死狂ふ人や、放り出されてこときれてゐる死骸が……。あの死骸は僕なのか。……あの時以来、僕は死ぬるならやはり何処かの軒の下で穏かに呼吸をひきとりたいと思つてゐた。ところが、ふと気がついたのだが、僕を容れてくれる屋根は今はもう何処にもないのだ。これははじめから分つてゐたはずだつた。僕の迂闊さがいけなかつたのだ。
 悪いことに、僕はその頃から、ときどき変な咳をするやうになつてゐた。
「一度医者に診てもらつたらどうだ」この家の主人は僕を憐むやうな調子で云つてくれる。「今病気したら大変だからね、早いうちに養生した方がいい」僕はただ泣きたい気持でそれを聞いてゐた。……僕の怪しげな咳は暫くしておさまつてゐたが、いつの間にか僕は屋内の洗面所で口を漱ぐことを禁止されてゐた。僕は雨の朝の屋外の井戸の処で顔を洗ふことになつた。ところが暫くすると井戸端で顔を洗ふのも禁止されてしまつた。僕は一旦井戸で汲んだ洗面器を抱えて、今は塵捨場になつてゐる防空壕のところで顔を洗つた。……食事も既に大分前から僕のだけ分離されてゐた。いつも食事の時刻を見計つて僕が階段を降りて行くと、誰もゐない広い部屋の片隅に僕の食事がぽつんと置いてあつた。どうかすると膳の脇に、「タバコ、五円三十銭」と書いた紙片と配給ののぞみ[#「のぞみ」に傍点]が置いてあつた。
 僕はもうこの家の細君と口をきくのが怕かつた。どうしても何かを口頭で依頼しなければならぬ時、僕はまるで犯人のやうにへどもどしてゐた。細君の顔は石のやうに平静だつたが、僕のおろおろ声がその耳に入つた時、一瞬相手の顔にさつと漲る怒気はまるで鋭利な刃もののやうにおもへた。……僕は自分の部屋にゐる時でも、絶えずこの家の神経に監視されてゐた。僕はじりじりと脅やかされ絶えず悶えた。それでも僕は卑屈にはなりたくなかつた。しかし、どうしてもこれでは卑屈にしかなれない。このまま、かうした生活をつづけて行くなら僕は結局、陰惨無類の人間にされてしまひさうだ。僕はそれが腹立たしく、時に何かヒステリツクな気持に駆られさうだつた。
 どんなに僕が打ちのめされてゐるかは、外へ出てみるとよくわかつた。たまに以前の友人を訪ねて行つたりすると、罹災してゐない家では、畳があつて、何もかも落着いてゐる。それだけでも僕には慰めのやうな気がしたが、その家では食事まで出してくれる。それも、僕一人がぽつんと餌食を与へられるのではなく、みんなが僕を忌避しないで食卓を囲む。こんなことがあり得るのだらうかと、僕は何だか眼の前に霧のやうなものがふるへだすのだつた。……霧のやうなものは、あまり親しくない人を訪ねて行つても、僕のなかでふるへてゐた。さういふ人と逢ふとき、僕はひどく感情が脅え、言葉が閊へたりするのだが、相手は僕を喫茶店へ誘つて珈琲を奢つてくれたりする。僕のやうな人間でも、あたりまへに扱つてくれる人がゐるのかと思ふと、急に泣きだしたくなる。いけない、いけない、これはまるでヒステリーの劣等感だ、と僕は自分にむかつて叫ぶ。だが、飢ゑと一緒に存在する涙もろいものは、僕の顔のすぐ下にあつて、どうにも出来なかつた。
 ある日も僕は昔の知人とめぐりあつて、その家で酒を御馳走になつた。はじめはやはり冷んやりと脅えがちのものが僕のなかに蟠つてゐたが、そのうちに酒の酔と旧知の情が僕をだんだんいい気持にさせた。すると、僕はお前が生きてゐた頃の昔の自分とまだちよつとも変つてゐないやうな気がした。帰つて行けば、ちやんと居心地のいい家が待つてゐてくれる、さういふ風な錯覚が僕の足どりを軽くした。だが、一歩そこの門を出ると、外は真の暗闇だつた。廃墟の死骸や狂犬やあらゆる不安と溶けあつてゐる茫々とした夜路をふらふらと僕は駅の方へ歩いて行つた。駅に来て僕は電車を三十分あまり待つた。それから乗替の駅ではもつともつと長く待たねばならなかつた。さうして夜の時刻が更けて行くのが切実な恐怖をかきたてながら、一方ではまだ昔の夢が疼くやうに僕のなかにあつた。いつもの駅で降りた時、既に人足は杜絶えてゐた。僕はその家の戸口に立つまではやはり何か満ちたりたやうな気分だつた。……灯を消したガラスの家はしーんとして深夜のなかに突立つてゐた。僕はその扉にまだ鍵が掛つてゐないのを知つて、まづ吻とした。それから内側に入つて、何気なく鍵を掛けようとした。ところが、どうしても鍵はうまく掛らなかつた。僕は扉を持上げては、鍵と鍵穴の位置を合はさうとした。すると、そのたびに扉はガタガタと音たて、鍵は反抗するのだつた。ゴトゴトといふもの音が僕を苛責と恐怖に突陥してゐた。僕はその時、奥の方の寝室でこの家の細君が何か歯ぎしりに似た呻き声を発したやうにおもふ。つづいて鈍い足音が近づき、暗闇の向から主人の声がした。
「おう、いいよ、僕が掛ける」声の調子で僕は相手が怒つてゐないのを感じた。
「あ……」と曖昧な返答を残し僕はそのまま階段を昇つて行つた。
 僕が何十回試みても出来なかつた鍵を、彼は一回で完了した。あたりは再びしーんとなつた。
 僕が自分の部屋に入り、洋服掛に服を吊るさうとする、服掛がガタンと床に落ちた。木製の服掛は薄い板敷に(それはそのまま天井板になつてゐて、その下ではこの家の細君が寝てゐるのだ)あまりにも大きな音響をたてた。たちまち僕の耳は歯ぎしりに似た神経の脅威を聞いたやうな気がする。だが、それはこの家屋の不幸な呻吟のやうにもおもへた。……それから僕は部屋の片隅に積重ねてある夜具を敷かうとした。すると、机
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