がはりに使用してゐる石油箱の上の灰皿がガタンと落ちた。重ね重ねの失策に僕はもう茫然としてしまつた。
その翌朝はねばつこい烈風が日の光を掻き廻してゐて、恰度あの引越を言渡された厭な日とそつくりの天気だつた。僕はおそるおそる階段を降りて行つた。部屋の隅の椅子に腰掛けてゐたその家の主人と細君と弟の話は急に杜切れ、細君は石のやうな表情でつんと立上ると奧の部屋に消えてしまつた。それから、思ひきり力一杯ドアを閉める音がした。
「風あたりがひどいよ」
主人が僕のぼんやり立つてゐるのを見て呟くと、細君の弟はちよつと薄ら笑ひをした。僕は何事かを了解した。瞬間、僕にはこのガラスの家がバラバラになつて頭上に崩れ墜ちたやうに思つた。それでゐて、僕の足もとを流れてゐるのは生温かい、そして妙に冷たいところのある気体だつた。僕はぼんやりした儘おづおづとしてゐた。何事かを弁解しようとすれば、唇のあたりが徒らに痙攣しさうになるのだつた。……かうして、僕はこの家の主人にも細君にも謝罪する機会を逸してしまつた。この家の主人が社用で遠方に出かけてから、僕にはまだ一通のたよりも来なかつた。
僕は部屋に寝そべつて、出勤ま
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