あつて、どうにも出来なかつた。
 ある日も僕は昔の知人とめぐりあつて、その家で酒を御馳走になつた。はじめはやはり冷んやりと脅えがちのものが僕のなかに蟠つてゐたが、そのうちに酒の酔と旧知の情が僕をだんだんいい気持にさせた。すると、僕はお前が生きてゐた頃の昔の自分とまだちよつとも変つてゐないやうな気がした。帰つて行けば、ちやんと居心地のいい家が待つてゐてくれる、さういふ風な錯覚が僕の足どりを軽くした。だが、一歩そこの門を出ると、外は真の暗闇だつた。廃墟の死骸や狂犬やあらゆる不安と溶けあつてゐる茫々とした夜路をふらふらと僕は駅の方へ歩いて行つた。駅に来て僕は電車を三十分あまり待つた。それから乗替の駅ではもつともつと長く待たねばならなかつた。さうして夜の時刻が更けて行くのが切実な恐怖をかきたてながら、一方ではまだ昔の夢が疼くやうに僕のなかにあつた。いつもの駅で降りた時、既に人足は杜絶えてゐた。僕はその家の戸口に立つまではやはり何か満ちたりたやうな気分だつた。……灯を消したガラスの家はしーんとして深夜のなかに突立つてゐた。僕はその扉にまだ鍵が掛つてゐないのを知つて、まづ吻とした。それから内側に入
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