が毒々しい樹木の緑を濡らし、湿気は飢ゑとともに到る処に匐い廻つた。そして、煙が、家の中で薪や紙を焚くので、煙はいつまでも亡霊のやうにあちこちに籠つてゐた。……僕の頭も感じてゐることもすべてもう夕暮のやうに仄暗かつた。どこかで必死に歯を喰ひしばつてゐる人間の顔がぼんやり泛かぶ。と、つぎつぎに死んでゆく人の群や、呻きながら、静かに救ひを求めながら路上に倒れたまま誰からも顧られない重傷者の顔が……あの日の惨劇がまだその儘つづいてゐるやうであつた。
ふと見ると、この家の細君がびしよ濡れの姿で外から帰つて来た。その土色の顔には殺気のひいた無気味さが漲つてゐる。彼女はぺたんと椅子に腰を下すと、
「撲られた」と、乾ききつた声で云つた。それから、隣組の女同志の争ひについて、いきまいて喋りだした。が、僕には少し耳が遠いやうな感じで、何が何だかはつきり分らなかつた。配給ものの量についての説明を彼女が追求してゐると、いきなり隣にゐた大女が撲りつけたといふ、それだけしか事情は呑みこめなかつた。……再び僕は薄暗い雨の思惟に鎖されてゐた。泥べたの上でずぶ濡れになり争ひあつてゐる女の姿が雨の中のスパアクのやうにお
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