の知れない陰惨なものが既に地上を覆《おお》おうとしているのだった。
 息苦しさは、白い路を眺めている彼の眼のなかにあった。だが、暫《しばら》く妻と一緒にそこに佇《たたず》んでいると、やはり戸外の夜の空気が少しずつ彼を鎮めていた。再び家に戻って来ると、さきほどと違った、かすかな爽やかさが身につけ加えられていた。……こういう一寸《ちょっと》した気分の転換を彼の妻はよく心得ているのだ。それで、彼は母親にあやされる、あの子供の気持になっていることがよくある。
 粗末な生垣《いけがき》で囲まれた二坪ほどの小庭には、彼が子供の頃|見憶《みおぼ》えて久しく眼にしなかった草花が一めんに蔓《はびこ》っていた。露草、鳳仙花《ほうせんか》、酸漿《ほおずき》、白粉花《おしろいばな》、除虫菊……密集した小さな茎の根元や、くらくらと光線を吸集してうなだれている葉裏に、彼の眼はいつもそそがれる。とすさまじい勢で時が逆流する。子供の時そういうものを眺めた苦悩とも甘美とも分ちがたい感覚がすぐそこにあり、何か密画風の世界と、それをとりまく広漠たる夢魔が入り混っていた。それは彼の午睡のなかにも現れた。ぐったりと頭と肩は石のように無感覚になっていて、彼の睡《ねむ》っている斜横の方角に、庭の酸漿の実が見えてくる。ほおずきの根元が急に嶮《けわ》しく暗くなってゆくと、朱《あか》い実が一きわ赤く燃え立つのが、何か悪い予感がして、それを見ていると、無性に堪《たま》らなくなる。彼は子供の頃たしかにこれと同じような悪寒《おかん》に襲われていたのをぼんやり思い出す。と、その夢とはまた別個に、彼の睡っている眼に、膝《ひざ》こぶしの一部が巨大な山脈か何かのように茫と浮び上る。見ると、そこは確か先日から小さな腫物《はれもの》ができて、赤くはれ上っていたのだが、今そこが噴火山となって赤々と煙を噴き上げている。二つの夢が分裂したまま同時に進行してゆく状態が終ると、彼は虚脱者のように眼を見ひらいていた。陽はまだ庭さきにギラギラ照っていたが、畳の上には人心地《ひとごこち》を甦《よみがえ》らすものがあって、そのなかに黄色のワン・ピースを着た妻の姿があった。彼は柱に凭掛って、暫く虚脱のあとを吟味していた。あのような奇怪な夢も、それを妻に語れば、殆ど彼等は両方でみた夢を語り合っていたので、彼女はすぐ分ってくれそうであった。だが、彼はふと、いつも鋩《きっさき》のように彼に突立ってくるどうにもならぬ絶望感と、そこから跳《は》ね上ろうとする憤怒《ふんぬ》が、今も身裡《みうち》を疼くのをおぼえた。殆ど祈るような眼つきで、彼は空間を視つめていた。と、遠い昔の川遊びの記憶がふと目さきにちらついて来る。故郷の澄みきった水と子供のあざやかな感覚が静かな音響をともないながら……。
「こんな小説はどう思う」彼は妻に話しかけた。
「子供がはじめて乗合馬車に乗せてもらって、川へ連れて行ってもらう。それから川で海老《えび》を獲《と》るのだが、瓶《びん》のなかから海老が跳ねて子供は泣きだす」
 妻の眼は大きく見ひらかれた。それは無心なものに視入ったり憧《あこが》れたりするときの、一番懐しそうな眼だった。それから急に迸《ほとばし》るような悦びが顔一ぱいにひろがった。
「お書きなさい、それはきっといいものが書けます」
 その祈るような眼は遙《はる》か遠くにあるものに対《むか》って、不思議な透視を働かせているようだった。彼もまた弾《はず》む心で殆ど妻の透視しているものを信じてもいいとおもえたのだが……。
 彼の妻は結婚の最初のその日から、やがて彼のうちに発展するだろうものを信じていた。それまで彼の書いたものを二つ三つ読んだだけで、もう彼女は彼の文学を疑わなかった。それから熱狂がはじまった。さりげない会話や日常の振舞の一つ一つにも彼をその方向へ振向け、そこへ駆り立てようとするのが窺《うかが》われた。彼は若い女の心に転じられた夢の素直さに驚き、それからその親切に甘えた。だが、何の職業にも就《つ》けず、世間にも知られず、ひたすら自分ひとりで、ものを書いて行こうとする男には、身を斫《き》りさいなむばかりの不安と焦躁《しょうそう》が渦巻いていた。世の嘲笑《ちょうしょう》や批難に堪えてゆけるだけの確乎《かっこ》たるものはなかったが、どうかすると、彼はよく昂然《こうぜん》と、しかし、低く呟《つぶや》いた。
「たとえ全世界を喪《うしな》おうとも……」
 たとえ全世界を喪おうとも……それはそれでよかった。だが、眼の前に一人の女が信じようとしている男、その男が遂《つい》に何ものでもなかったとしたら……。
 彼にとって、文学への宿願は少年の頃から根ざしてはいた。が、非力で薄弱な彼には、まだ、この頃になっても殆ど何の世界も築くことができなかった。世界は彼にと
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