っては恐怖と苦悶《くもん》に鎖《とざ》されていた。が、その向側に夢みる世界だけが甘く清らかに澄んでいた。妻は彼の向側にあるものを引き寄せようとしているのかもしれなかった。彼はそのような妻の顔をぼんやりと眺める。するとむしろ、妻の顔の向側に何か分らないが驚くべきものがあるようにおもえた。
 その年の夏が終る頃から、作品は少しずつ書かれていた。外部の喧騒《けんそう》から遮断《しゃだん》されたところで読書と瞑想《めいそう》に耽《ふけ》ることもできたが、彼はいつも神経を斫り刻むおもいで、難渋を重ねながらペンをとった。……このようにして年月は流れて行った。だが、外部の世界と殆ど何の接触もなく静かに月日を送っていることは、却《かえ》って鋭い不安を掻《か》きたてていた。天井の板が夜ことりと音をたてただけでも、彼の心臓をどきりとさせたし、雨戸の節穴から差してくる月の光さえも神経を青ざめさせた。

 それからやがて、あの常に脅かされていたものが遂にやって来たのだ。戦争は、ある年の夏、既にはじまっていた。彼はただ頑《かたくな》な姿勢で暗い年月を堪えてゆこうとした。が、次第に彼は茫然として思い耽るばかりだった。幼年時代に見た空の青かったこと、水の澄んでいたこと、そのような生存感ばかりが疼くように美しかった。茫然としてもの思いに耽っている彼を、妻はよくこう云った。
「エゴのない作家は嫌《きらい》です。誰が何と云おうとも、たとえ全世界を捨てても……」
 そういう妻の眼もギラギラと燃え光っていた。澱《よど》みやすい彼の気分を掻きまぜ沈む心をひき立てようとするのも彼女だった。それから妻は茶の湯の稽古《けいこ》などに通いだした。だが、その妻の挙動にも以前と違ういらだちが滲《にじ》んで来た。
「淋《さび》しい、淋しい、何かお話して頂戴《ちょうだい》」
 真夜なかに妻は甘えた。二人だけの佗住居《わびずまい》を淋しがる彼女ではなかったのに、何かの異常なものの予感に堪えきれなくなったらしい。だが、それが何であるかは、彼にはまだ分らなかった。
 その悲壮がやって来たのは、もう二年後のことだった。夏の終り頃、彼は一人で山の宿へ二三泊の旅をしたが、殆ど何一つ目も心も娯《たの》しますもののないのに驚いた。山の湖水の桟橋に遊覧用のモーター・ボートが着く。青い軍服を着た海軍士官の一隊が――彼の眼には編笠《あみがさ》をかむって珠数繋《じゅずつな》ぎになっている囚人の姿に見えてくる。こうした憂鬱《ゆううつ》に沈みきって、悄然《しょうぜん》とむなしい旅から戻って来た。家へ戻ってからも彼は己《おの》れと己れの心に訝《いぶか》りながら佗しい旅の回想をしていた。
 そうした、ある朝、彼は寝床で、隣室にいる妻がふと哀《かな》しげな咳《せき》をつづけているのを聞いた。何か絶え入るばかりの心細さが、彼を寝床から跳ね起させた。はじめて視るその血塊は美しい色をしていた。それは眼のなかで燃えるようにおもえた。妻はぐったりしていたが、悲痛に堪えようとする顔が初々《ういうい》しく、うわずっていた。妻はむしろ気軽とも思える位の調子で入院の準備をしだした。悲痛に打ちのめされていたのは彼の方であったかもしれない。妻のいなくなった部屋で、彼はがくんと蹲《うずくま》り茫然としていた。世界は彼の頭上で裂けて割れたようだった。やがて裂けて割れたものに壮烈が突立っていた。
 病院に通う路上で、赤とんぼの群が無数に一方の空へ流れてゆくのを視て、彼はひとり地上に突離されているようにおもえた。
 燃えて行った夏、燃えて行った夏……彼は晩夏のうっとりとした光線にみとれて、口誦《くちずさ》んだ。夏はまだいたるところに美しく燃えたぎっているようであった。病院の入口の庭ではカンナが赤く天をめざして咲いていた。病室のベッドのなかで、妻は赤らんだ顔をしていた。その額は大きな夏の奔騰のように彼におもえた。やがて彼には周囲の殆どすべてのものが熱っぽく視えて来た。それは病苦と祈りを含んだ新しい日々のようであった。「どうなるのでしょう」と妻の眼はふるえる。彼も突離されたように、だが、その底で彼は却って烈しく美しいものを感じた。彼はとり縋《すが》るようにそれに視入っているのだった。
 その後、妻が家に戻って来て、療養生活をつづけるようになってからも、烈しく突き離されたものと美しく灼《や》きつけられたものが、いつも疼《うず》いていた。この時を覘《ねら》うように、殺気立った世の波は彼の家に襲って来た。家政婦は不意に来なくなり、それからその次に雇った女中は二日目にものを盗んで去った。彼はがくんと蹲り祈りと怒りにうち震えた。その次に通いでやって来るようになった女中は何事もなく漸《ようや》くこの家に馴《な》れて来そうだった。
 それから少しずつ穏かな日がつづ
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