いた。いつも彼の皮膚は病妻の容態をすぐ側《そば》で感じた。些細な刺戟《しげき》も天候のちょっとした変動もすぐに妻の体に響くのだったが、脆弱《ひよわ》い体質の彼にはそれがそのまま自分の容態のようにおもえた。無限に繊細で微妙な器と、それを置くことの出来る一つの絶対境を彼は夢みた。静謐《せいひつ》が、心をかき乱されることのない安静が何よりも今は慕わしかった。……だが、ある夜、妻の夢では天上の星が悉《ことごと》く墜落して行った。
「県境へ行く道のあたりです。どうして、あの辺は茫々《ぼうぼう》としているのでしょう」
妻はみた夢に脅え訝《いぶか》りながら彼に語った。その道は妻が健康だった頃、一緒に歩いたことのある道だった。山らしいものの一つも見えない空は冬でもかんかんと陽《ひ》が照り亘《わた》り、干乾《ひか》らびた轍《わだち》の跡と茫々とした枯草が虚無のように拡《ひろが》っていた。殆ど彼も妻と同じ位、その夢に脅えながら悶《もだ》えることができた。妖《あや》しげな天変地異の夢は何を意味し何の予感なのか、彼にはぼんやり解《わか》るようにおもえた。だが、彼は押黙ってそのことは妻に語らなかった。……寝つけない夜床の上で、彼はよく茫然と終末の日の予感におののいた。焚附《たきつけ》を作るために、彼は朽木に斧《おの》をあてたことがある。すると無数の羽根蟻《はねあり》が足許《あしもと》の地面を匐《は》い廻った。白い卵をかかえて、右往左往する昆虫《こんちゅう》はそのまま人間の群集の混乱の姿だった。都市が崩壊し暗黒になってしまっている図が時々彼の夢には現れるのだった。
妻はきびしい自制で深い不安と戦いながら身をいたわっていた。静かに少しずつ恢復へ向っているような兆《きざし》も見えた。柔かい陽ざしが竹の若葉にゆらぐ真昼、彼女は縁側に坐って女中に髪を梳《す》かせていた。すると彼には、そういう静かな時刻はそのまま宇宙の最高の系列のなかに停止してしまっているのではないかと思える。
気分のいい日には、妻は自然の恵みを一人で享《う》けとっているかのように静臥椅子で沈黙していた。すべて過ぎて行った時間のうち最も美しいものが、すべて季節のうち最も優しいものだけが、それらが溶けあって、すぐ彼女のまわりに恍惚《こうこつ》と存在している。そういう時には彼も静臥椅子のほとりでぼんやりと、しかし熱烈に夢みた。たとえ
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