かむって珠数繋《じゅずつな》ぎになっている囚人の姿に見えてくる。こうした憂鬱《ゆううつ》に沈みきって、悄然《しょうぜん》とむなしい旅から戻って来た。家へ戻ってからも彼は己《おの》れと己れの心に訝《いぶか》りながら佗しい旅の回想をしていた。
 そうした、ある朝、彼は寝床で、隣室にいる妻がふと哀《かな》しげな咳《せき》をつづけているのを聞いた。何か絶え入るばかりの心細さが、彼を寝床から跳ね起させた。はじめて視るその血塊は美しい色をしていた。それは眼のなかで燃えるようにおもえた。妻はぐったりしていたが、悲痛に堪えようとする顔が初々《ういうい》しく、うわずっていた。妻はむしろ気軽とも思える位の調子で入院の準備をしだした。悲痛に打ちのめされていたのは彼の方であったかもしれない。妻のいなくなった部屋で、彼はがくんと蹲《うずくま》り茫然としていた。世界は彼の頭上で裂けて割れたようだった。やがて裂けて割れたものに壮烈が突立っていた。
 病院に通う路上で、赤とんぼの群が無数に一方の空へ流れてゆくのを視て、彼はひとり地上に突離されているようにおもえた。
 燃えて行った夏、燃えて行った夏……彼は晩夏のうっとりとした光線にみとれて、口誦《くちずさ》んだ。夏はまだいたるところに美しく燃えたぎっているようであった。病院の入口の庭ではカンナが赤く天をめざして咲いていた。病室のベッドのなかで、妻は赤らんだ顔をしていた。その額は大きな夏の奔騰のように彼におもえた。やがて彼には周囲の殆どすべてのものが熱っぽく視えて来た。それは病苦と祈りを含んだ新しい日々のようであった。「どうなるのでしょう」と妻の眼はふるえる。彼も突離されたように、だが、その底で彼は却って烈しく美しいものを感じた。彼はとり縋《すが》るようにそれに視入っているのだった。
 その後、妻が家に戻って来て、療養生活をつづけるようになってからも、烈しく突き離されたものと美しく灼《や》きつけられたものが、いつも疼《うず》いていた。この時を覘《ねら》うように、殺気立った世の波は彼の家に襲って来た。家政婦は不意に来なくなり、それからその次に雇った女中は二日目にものを盗んで去った。彼はがくんと蹲り祈りと怒りにうち震えた。その次に通いでやって来るようになった女中は何事もなく漸《ようや》くこの家に馴《な》れて来そうだった。
 それから少しずつ穏かな日がつづ
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