いのでせう」と妹は手にとつて笑つた。
「とてもいいところから貰へて、みんな満足のやうでした」
 先日の甥の結婚式の模様を妹はこまごまと話しだした。
「式のとき、あなたの噂も出ましたよ。あれはもう東京で、ちやんといいひとがあるらしい、とみんなさう云つてゐました」
 急に彼はをかしくなつた。妻と死別してもう七年になるので、知人の間でとかく揶揄や嘲笑が絶えないのを彼は知つてゐた。……妹が夕飯の仕度にとりかかると、彼は応接室の方へ行つてピアノの前に腰を下した。そのピアノは昔、妹が女学生の頃、広島の家の座敷に据ゑてあつたものだ。彼はピアノの蓋をあけて、ふとキイに触つてみた。暫く無意味な音を叩いてゐると、そこへ中学生の姪が姿を現した。すつかり少女らしくなつた姿が彼の眼にひどく珍しかつた。「何か弾いてきかせて下さい」と彼が頼むと、姪はピアノの上に楽譜をあれこれ捜し廻つてゐた。
「この『エリーゼのために』にしませうか」と云ひながら、また別の楽譜をとりだして彼に示しては、「これはまだ弾けません」とわざわざ断つたりする。その忙しげな動作は躊躇に充ちて危ふげだつたが、やがて、エリーゼの楽譜に眼を据ゑると、指
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