に出た。それから三人はぶらぶらと広島駅の方まで歩いて行つた。夜はもう大分遅かつたが、猿猴橋を渡ると、橋の下に満潮の水があつた。それは昔ながらの夜の川の感触だつた。京橋まで戻つて来ると、人通りの絶えた路の眼の前を、何か素速いものが横切つた。
「いたち」と次兄は珍しげに声を発した。
彼はまだ見ておきたい場所や訪ねたい家が少し残つてゐた。罹災後、半年あまり、そこで悲惨な生活をつづけた八幡村へも、久振りで行つてみたかつた。今では街からバスが出てゐて、それで行けば簡単なのだが、五年前とぼとぼと歩いた一里あまりの、あの路を、もう一度足で歩いてみたかつた。それで翌日、彼はまづ高須の妹の家に立寄つた。この新築の家にあがるのも、再婚後産れた子供を見るのも、これがはじめてだつた。
「もう年寄になつてしまひました。今ではあなたの方が弟のやうに見える」と妹は笑つた。側では這ひ歩きのできる子供が拗ねた顔で母親を視凝めてゐた。
「あなたは別に異状ないのですか。眼がこの頃、どうしたわけか、涙が出てしようがないの。A・B・C・Cで診て貰はうかしらと思つてるのですが」
妹と彼とは同じ屋内で原爆に遭つたのだが、五年後になつて異状が現れるといふことがあるのだらうか。……だが、妹は義兄の例を不安げに話しだした。その義兄はあの当時、原爆症で毛髪まで無くなつてゐたが、すぐ元気になり、その後長らく異状なかつたのに、最近になつて頬の筋肉がひきつけたり、衰弱が目だつて来たといふのだ。そんな話をきいてゐると、彼はあの直後、広島の地面のところどころから、突き刺すやうに感覚を脅かしてゐた異臭をまた想ひ出すのだつた。
妹のところで昼餉をすますと、彼は電車で楽楽園駅まで行き、そこから八幡村の方へ向かつて、小川に沿うた路を歩いて行つた。遙か向うに、彼の目によく見憶えのある山脈があつた。その山を眺めて歩いてゐると、嘗ての、ひだるい、悲しい、怒りに似た感情がかへりみられた。……飢餓のなかで、よく彼はとぼとぼとこの路を歩いてゐたものだ。冷却した宇宙にひとり残されたやうに、彼はこの路で、茫然として夜の星を仰いだものだ。だが、生存の脅威なら、その後もずつと引続いてゐるはずだつた。今も、生活の破局に晒されながら、かうして、この路をひとり歩いてゐる。だが、とにかく、あれから五年は生きて来たのだ。……いつの間にか、風が出て空気にしめりがあつた。山脈の方の空に薄靄が立ちこめ、空は曇つて来た。すぐ近くで、雲雀の囀りがきこえた。見ると、薄く曇つた中空に、一羽の雲雀は静かに翼を顫はせてゐた。
彼はその翌朝、白島の方へ歩いて行つた。寺の近くの花屋で金盞花の花を買ふと、亡妻の墓を訪ね、それから常盤橋の上に佇んで、泉邸の川岸の方を暫く眺めた。曇つた緑色の岸で、何か作業をしてゐる人の姿が小さく見える。あの岸も、この橋の上も、彼には死と焔の記憶があつた。
午后は基町の方へ出掛けて行つた。そこは昔の西練兵場跡なのだが、今は引揚者、戦災者などの家が建ならび、一つの部落を形づくつてゐる。野砲連隊の跡に彼の探す新生学園はあつた。彼は園主に案内されて孤児たちの部屋を見て歩いた。広い勉強部屋にくると、城跡の石垣と青い堀が、明暗を混じへてガラス張りの向うにあつた。
そこを出ると、彼は電車で舟入川口町の姉の家へ行つた。
「あんたの食器をあづかつてあるのは、あれはどうしたらいいのですか」彼が居間へ上ると、姉はすぐこんなことを云ひだした。
「あ、あれですか。もう要らないから勝手に使つて下さい」
食器といふのは、彼が地下に埋めておき、家の焼跡から掘出したものだが、以前、旅先の家で妻が使用してゐた品だつた。姉のところへ、あづけ放しにしてから五年になつてゐた。……彼はアルバムが見せてもらひたかつたので、そのことを云つた。どの写真が見たいのかと、姉は三冊のアムバム[#底本ママ]を奥から持つて来た。昔の家の裏にあつた葡萄棚の下にたたずんでゐる少女の写真は、すぐに見つかつた。これが、広島へ来るまで彼の念頭にあつた、死んだ姉の面影だつた。彼はそれを暫らく借りることにして、アルバムから剥ぎ取らうとした。が、変色しかかつた薄い写真は、ぺつたりと台紙に密着してゐた。破れて駄目になりさうなので、彼は断念した。
「あんた、一昨年こちらへ戻つたとき土地を売つたとかいふが、そのお金はどうしてゐますか」
「大かた無くなつてしまつた」
「あ、金に替へるものではないのね。金に替へればすぐ消える。あ、あ、さうですか」
姉はこんど改造した家のなかを見せてくれた。恰度、下宿人はみな不在だつたので、彼は応接室から二階の方まで見て歩いた。畳を置いた板の間が薄い板壁のしきりで二分され、二つの部屋として使用されてゐる。どの部屋も学生の止宿人らしく、侘しく殺風景だつた。内職
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