る。それから、彼が東京からはじめてこの新築の家へ訪ねた時も、その頃はまだ人家も疎らで残骸はあちこちに眺められた。その頃からくらべると、今この辺は見違へるほど街らしくなつてゐるのだつた。
午后、ペンクラブの到着を迎へるため広島駅に行くと、降車口には街の出迎へらしい人々が大勢集つてゐた。が、やがて汽車が着くと、人々はみんな駅長室の方へ行きだした。彼も人々について、そちら側へ廻つた。大勢の人々のなかからMの顔はすぐ目についた。そこには、彼の顔見知りの作家も二三ゐた。やがて、この一行に加はつて彼も市内見物のバスに乗つたのである。……バスは比治山の上で停まり、そこから市内は一目に見渡せた。すぐ叢のなかを雑嚢をかけた浮浪児がごぞごそしてゐる。それが彼の目には異様におもへた。それからバスは瓦斯会社の前で停まつた。大きなガスタンクの黝んだ面に、原爆の光線の跡が一つの白い梯子の影となつて残つてゐる。このガスタンクも彼には子供の頃から見馴れてゐたものなのだ。……バスは御幸橋を渡り、日赤病院に到着した。原爆患者第一号の姿は、背の火傷の跡の光沢や、左手の爪が赤く凝結してゐるのが標本か何かのやうであつた。……市役所・国秦寺・大阪銀行・広島城跡を見物して、バスは産業奨励館の側に停まつた。子供の時、この洋式の建物がはじめて街に現れた時、彼は父に連れられて、その階段を上つたのだが、あの円い屋根は彼の家の二階からも眺めることが出来、子供心に何かふくらみを与へてくれたものだ。今、鉄筋の残骸を見上げ、その円屋根のあたりに目を注ぐと、春のやはらかい夕ぐれの陽ざしが虚しく流れてゐる。雀がしきりに飛びまはつてゐるのは、あのなかに巣を作つてゐるのだらう。……時は流れた。今はもう、この街もいきなり見る人の眼に戦慄を呼ぶものはなくなつた。そして、和やかな微風や、街をめぐる遠くの山脈が、静かに何かを祈りつづけてゐるやうだ。バスが橋を渡つて、己斐の国道の方に出ると、静かな日没前のアスフアルトの上を、よたよたと虚脱の足どりで歩いて行く、ふわふわに脹れ上つた黒い幻の群が、ふと眼に見えてくるやうだつた。
翌朝、彼は瓦斯ビルで行はれる「広島の会」に出かけて行つた。そこの二階で、広島ペンクラブと日本ペンクラブのテーブルスピーチは三時間あまり続いた。会が終つた頃、サインブツクが彼の前にも廻されて来た。〈水ヲ下サイ〉と彼は何気なく咄嗟にペンをとつて書いた。それから彼はMと一緒に中央公民館の方へ、ぶらぶら歩いて行つた。Mは以前から広島のことに関心をもつてゐるらしかつたが、今度ここで何を感受するのだらうか、と彼はふと想像してみた。よく晴れた麗しい日和で、空気のなかには何か細かいものが無数に和みあつてゐるやうだつた。中央公民館へ来ると、会場は既に聴衆で一杯だつた。彼も今ここで行はれる講演会に出て喋ることにされてゐた。彼は自分の名や作品が、まだ広島の人々にもよく知られてゐるとは思はなかつた。だが、やはり遭難者の一人として、この土地とは切り離せないものがあるのではないかとおもへた。……喋らうとすることがらは前から漠然と考へつづけてゐた。子供の時、見なれた土手町の桜並木、少年の頃くらくらするやうな気持で仰ぎ見た国秦寺の樟の大樹の青葉若葉、……そんなことを考へ耽けつてゐると、いま頭のなかは疼くやうに緑のかがやきで一杯になつてゆくやうだつた。すると、講演の順番が彼にめぐつて来た。彼はステージに出て、渦巻く聴衆の顔と対きあつてゐたが、緑色の幻は眼の前にチラついた。顔の渦のなかには、あの日の体験者らしい顔もゐるやうにおもへた。
その講演会が終ると、バスはペンクラブの一行を乗せて夕方の観光道路を走つてゐた。眼の前に見える瀬戸内海の静かなみどりは、ざわめきに疲れた心をうつとりとさせるやうだつた。汽船が桟橋に着くと、灯のついた島がやさしく見えて来た。旅館に落着いて間もなく、彼はある雑誌社の原爆体験者の座談会の片隅に坐つてゐた。
翌日、ペンクラブは解散になつたので、彼は一行と別れ、ひとり電車に乗つた。幟町の家へ帰つてみると、裏の弟と平田屋町の次兄が来てゐた。かうして兄弟四人が顔をあはすのも十数年振りのことであつた。が、誰もそれを口にして云ふものもなかつた。三畳の食堂は食器と人でぎつしりと一杯だつた。「広島の夜も少し見よう。その前に平田屋町へ寄つてみよう」と、彼は次兄と弟を誘つて外に出た。次兄の店に立寄ると、カーテンが張られ灯は消えてゐた。
「みんなが揃つてゐるところを一寸だけ見せて下さい」
奥から出て来た嫂に彼はさう頼んだ。寝巻姿や洋服の子供がぞろぞろと現れた。みんな、嘗て八幡村で侘しい起居をともにした戦災児だつた。それぞれ違ふ顔のなかで、彼に一番懐いてゐた長女のズキズキした表情が目だつてゐた。彼はまたすぐ往来
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