あつた。山脈の方の空に薄靄が立ちこめ、空は曇つて来た。すぐ近くで、雲雀の囀りがきこえた。見ると、薄く曇つた中空に、一羽の雲雀は静かに翼を顫はせてゐた。
 彼はその翌朝、白島の方へ歩いて行つた。寺の近くの花屋で金盞花の花を買ふと、亡妻の墓を訪ね、それから常盤橋の上に佇んで、泉邸の川岸の方を暫く眺めた。曇つた緑色の岸で、何か作業をしてゐる人の姿が小さく見える。あの岸も、この橋の上も、彼には死と焔の記憶があつた。
 午后は基町の方へ出掛けて行つた。そこは昔の西練兵場跡なのだが、今は引揚者、戦災者などの家が建ならび、一つの部落を形づくつてゐる。野砲連隊の跡に彼の探す新生学園はあつた。彼は園主に案内されて孤児たちの部屋を見て歩いた。広い勉強部屋にくると、城跡の石垣と青い堀が、明暗を混じへてガラス張りの向うにあつた。
 そこを出ると、彼は電車で舟入川口町の姉の家へ行つた。
「あんたの食器をあづかつてあるのは、あれはどうしたらいいのですか」彼が居間へ上ると、姉はすぐこんなことを云ひだした。
「あ、あれですか。もう要らないから勝手に使つて下さい」
 食器といふのは、彼が地下に埋めておき、家の焼跡から掘出したものだが、以前、旅先の家で妻が使用してゐた品だつた。姉のところへ、あづけ放しにしてから五年になつてゐた。……彼はアルバムが見せてもらひたかつたので、そのことを云つた。どの写真が見たいのかと、姉は三冊のアムバム[#底本ママ]を奥から持つて来た。昔の家の裏にあつた葡萄棚の下にたたずんでゐる少女の写真は、すぐに見つかつた。これが、広島へ来るまで彼の念頭にあつた、死んだ姉の面影だつた。彼はそれを暫らく借りることにして、アルバムから剥ぎ取らうとした。が、変色しかかつた薄い写真は、ぺつたりと台紙に密着してゐた。破れて駄目になりさうなので、彼は断念した。
「あんた、一昨年こちらへ戻つたとき土地を売つたとかいふが、そのお金はどうしてゐますか」
「大かた無くなつてしまつた」
「あ、金に替へるものではないのね。金に替へればすぐ消える。あ、あ、さうですか」
 姉はこんど改造した家のなかを見せてくれた。恰度、下宿人はみな不在だつたので、彼は応接室から二階の方まで見て歩いた。畳を置いた板の間が薄い板壁のしきりで二分され、二つの部屋として使用されてゐる。どの部屋も学生の止宿人らしく、侘しく殺風景だつた。内職
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