へ歩いて行った。寺の近くの花屋で金盞花の花を買うと、亡妻の墓を訪ね、それから常盤橋の上に佇《たたず》んで、泉邸の川岸の方を暫く眺めた。曇った緑色の岸で、何か作業をしている人の姿が小さく見える。あの岸も、この橋の上も、彼には死と焔《ほのお》の記憶があった。
午後は基町の方へ出掛けて行った。そこは昔の西練兵場跡なのだが、今は引揚者、戦災者などの家が建ならび、一つの部落を形づくっている。野砲聯隊《やほうれんたい》の跡に彼の探す新生学園はあった。彼は園主に案内されて孤児たちの部屋を見て歩いた。広い勉強部屋にくると、城跡の石垣《いしがき》と青い堀が、明暗を混じえてガラス張りの向うにあった。
そこを出ると、彼は電車で舟入川口町の姉の家へ行った。
「あんたの食器をあずかってあるのは、あれはどうしたらいいのですか」
彼が居間へ上ると、姉はすぐこんなことを云いだした。
「あ、あれですか。もう要《い》らないから勝手に使って下さい」
食器というのは、彼が地下に埋めておき、家の焼跡から掘出したものだが、以前、旅先の家で妻が使用していた品だった。姉のところへ、あずけ放しにしてから五年になっていた。……彼はアルバムが見せてもらいたかったので、そのことを云った。どの写真が見たいのかと、姉は三冊のアルバムを奥から持って来た。昔の家の裏にあった葡萄棚《ぶどうだな》の下にたたずんでいる少女の写真は、すぐに見つかった。これが、広島へ来るまで彼の念頭にあった、死んだ姉の面影だった。彼はそれを暫く借りることにして、アルバムから剥《は》ぎ取ろうとした。が、変色しかかった薄い写真は、ぺったりと台紙に密着していた。破れて駄目になりそうなので、彼は断念した。
「あんた、一昨年こちらへ戻ったとき土地を売ったとかいうが、そのお金はどうしていますか」
「大かた無くなってしまった」
「あ、金に替えるものではないのね。金に替えればすぐ消える。あ、あ、そうですか」
姉はこんど改造した家のなかを見せてくれた。恰度、下宿人はみな不在だったので、彼は応接室から二階の方まで見て歩いた。畳を置いた板の間が薄い板壁のしきりで二分され、二つの部屋として使用されている。どの部屋も学生の止宿人らしく、佗しく殺風景だった。内職のミシン仕事も思わしくないので、下宿屋を始めたのだが、「この私を御覧なさい。十万円|貯《た》めていましたよ。そのうち六万円で今度、大工を雇ったのです」と姉は云うのだった。ここは爆心地より離れていたので、家も焼けなかったのだが、終戦直後、姉は夫と死別し、二人の息子《むすこ》を抱《かか》えながら奮闘しているのだ。だが、その割りには、PL信者の姉は暢気《のんき》そうだった。「しっかりして下さい。しっかり」と姉は別際《わかれぎわ》まで繰返した。
明日は出発の予定だったが、彼はまだ兄に借金を申込む機会がなかった。いろんな人々に遇い、さまざまの風景を眺めた彼には、何か消え失せたものや忘却したものが、地下から頻《しき》りに湧《わ》き上ってくるような気持だった。きのう八幡村に行く路で雲雀を聴いたことを、ふと彼は嫂に話してみた。
「雲雀なら広島でも囀っていますよ。ここの裏の方で啼《な》いていました」
先夜|瞥見《べっけん》した鼬《いたち》といい、雲雀といい、そんな風な動物が今はこの街に親しんできたのであろうか。
「井ノ頭公園は下宿のすぐ近くでしょう。ずっと前に上京したとき、一度あの公園には案内してもらいました」……死んだ妻が、嫂をそこへわざわざ案内したということも、彼には初耳のようにおもわれた。
彼はその晩、床のなかで容易に睡《ねむ》れなかった。〈水ヲ下サイ〉という言葉がしきりと頭に浮んだ。それはペンクラブの会のサインブックに何気なく書いたのだが、その言葉からは無数のおもいが湧きあがってくるようだった。火傷で死んだ次兄の家の女中も、あの時しきりに水を欲しがっていた。水ヲ下サイ……水ヲ下サイ……水ヲ下サイ……水ヲ下サイ……それは夢魔のように彼を呻吟《しんぎん》させた。彼は帰京してから、それを次のように書いた。
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水ヲ下サイ
アア 水ヲ下サイ
ノマシテ下サイ
死ンダホウガ マシデ
死ンダホウガ
アア
タスケテ タスケテ
水ヲ
水ヲ
ドウカ
ドナタカ
オーオーオーオー
オーオーオーオー
天ガ裂ケ
街ガナクナリ
川ガ
ナガレテイル
オーオーオーオー
オーオーオーオー
夜ガクル
夜ガクル
ヒカラビタ眼ニ
タダレタ唇《くちびる》ニ
ヒリヒリ灼《や》ケテ
フラフラノ
コノ メチャクチャノ
顔ノ
ニンゲンノウメキ
ニンゲンノ
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出発の日の朝、彼は漸く兄に借金のことを話しかけてみた。
「あの本の収入はどれ位あったのか」
彼はありのままを云うより他《ほか》はなかった。原爆のことを書いたその本は、彼の生活を四五ヵ月|支《ささ》えてくれたのである。
「それ位のものだったのか」と兄は意外らしい顔つきだった。だが、兄の商売もひどく不況らしかった。それは若夫婦の生活を蔭で批評する嫂の口振りからも、ほぼ察せられた。
「会社の欠損をこちらへ押しつけられて、どうにもならないんだ」と兄は屈託げな顔で暫く考え込んでいた。
「何なら、あの株券を売ってやろうか」
それは死んだ父親が彼の名義にしていたもので、その後、長らく兄の手許《てもと》に保管されていたものだった。それが売れれば、一万五千円の金になるのだった。母の遺産の土地を二年前に手離し、こんどは父の遺産とも別れることになった。
十日振りに帰ってみると、東京は雨だった。フランスへ留学するEの送別会の案内状が彼の許にも届いていた。ある雨ぐもりの夕方、神田へ出たついでに、彼は久し振りでU嬢の家を訪ねてみた。玄関先に現れた、お嬢さんは濃い緑色のドレスを着ていたので、彼をハッとさせた。だが、緑色の季節は吉祥寺のそこここにも訪れていた。彼はしきりに少年時代の広島の五月をおもいふけっていた。
[#地から2字上げ](昭和二十六年七月号『三田文学』)
底本:「夏の花・心願の国」新潮文庫、新潮社
1973(昭和48)年7月30日初版発行
入力:tatsuki
校正:林 幸雄
2002年1月1日公開
2006年2月4日修正
青空文庫作成ファイル:
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