、彼が眼をさますと、枕頭《ちんとう》に小さな熊《くま》や家鴨《あひる》の玩具《おもちゃ》が並べてあった。姪たちのいたずらかと思って、そのことを云うと、「あなたが淋《さび》しいだろうとおもって、慰めてあげたのです」と妹は笑いだした。
その日の午後、彼は姪に見送られて汽車に乗った。各駅停車のその列車は地方色に染まり、窓の外の眺めものんびりしていたが、尾道《おのみち》の海が見えて来ると、久し振りに見る明るい緑の色にふと彼は惹《ひ》きつけられた。それから、彼の眼は何かをむさぼるように、だんだん窓の外の景色に集中していた。彼は妻と死別れてから、これまで何度も妻の郷里を訪ねていた。それは妻の出生にまで溯《さかのぼ》って、失われた時間を、心のなかに、もう一度とりかえしたいような、漠《ばく》とした気持からだったが、その妻の生れた土地ももう間近にあった。……本郷駅で下車すると、亡妻の家に立寄った。その日の夕方、その家のタイル張りの湯にひたると、その風呂にはじめて妻に案内されて入った時のことがすぐ甦《よみがえ》った。あれから、どれだけの時間が流れたのだろう、と、いつも思うことが繰返された。
翌日の夕方、彼は広島駅で下車すると、まっすぐに幟町《のぼりちょう》の方へ歩いて行った。道路に面したガラス窓から何気なく内側を覗《のぞ》くと、ぼんやりと兄の顔が見え、兄は手真似《てまね》で向うへ廻れと合図した。ふと彼はそこは新しく建った工場で、家の玄関の入口はその横手にあるのに気づいた。
「よお、だいぶ景気がよさそうですね」
甥がニコニコしながら声をかけた。その甥の背後にくっつくようにして、はじめて見る、快活そうな細君がいた。彼は明日こちらへ到着するペンクラブのことが、新聞にかなり大きく扱われていて、彼のことまで郷土出身の作家として紹介してあるのを、この家に来て知った。
「原子爆弾を食う男だな」と兄は食卓で軽口を云いだした。が、少し飲んだビールで忽《たちま》ち兄は皮膚に痒《かゆ》みを発していた。
「こちらは喰《く》われる方で……こないだも腹の皮をメスで剥《は》がれた」
原子爆弾症かどうかは不明だったが、近頃になって、兄は皮膚がやたらに痒くて困っていた。A・B・C・C(原子爆弾影響研究所)で診察して貰《もら》うと、皮膚の一部を切とって、研究のため、本国へ送られたというのである。この前見た時にくらべると、兄の顔色は憔悴《しょうすい》していた。すぐ側に若夫婦がいるためか、嫂《あによめ》の顔も年寄めいていた。夜遅く彼は下駄をつっかけて裏の物置部屋を訪《たず》ねてみた。ここにはシベリアから還った弟夫婦が住居しているのだった。
翌朝、彼が縁側でぼんやり佇《たたず》んでいると、畑のなかを、朝餉《あさげ》の一働きに、肥桶《こえおけ》を担《かつ》いでゆく兄の姿が見かけられた。今、彼のすぐ眼の前の地面に金盞花《きんせんか》や矢車草の花が咲き、それから向うの麦畑のなかに一本の梨《なし》の木が真白に花をつけていた。二年前彼がこの家に立寄った時には麦畑の向うの道路がまる見えだったが、今は黒い木塀《きべい》がめぐらされている。表通りに小さな縫工場が建ったので、この家も少し奥まった感じになった。が、焼ける前の昔の面影を偲《しの》ばすものは、嘗《かつ》て庭だったところに残っている築山《つきやま》の岩と、麦畑のなかに見える井戸ぐらいのものだ。彼はあの惨劇の朝の一瞬のことも、自分がいた場の状況も、記憶のなかではひどくはっきりしていた。火の手が見えだして、そこから逃げだすとき、庭の隅《すみ》に根元から、ぽっくり折れ曲って青い枝を手洗鉢《てあらいばち》に突込んでいた楓《かえで》の生々しい姿は、あの家の最後のイメージとして彼の目に残っている。それから壊滅後一カ月あまりして、はじめてこの辺にやって来てみると、一めんの燃えがらのなかに、赤く錆《さ》びた金庫が突立っていて、その脇《わき》に木の立札が立っていた。これもまだ克明に目に残っている。それから、彼が東京からはじめてこの新築の家へ訪ねた時も、その頃はまだ人家も疎《まば》らで残骸《ざんがい》はあちこちに眺《なが》められた。その頃からくらべると、今この辺は見違えるほど街らしくなっているのだった。
午後、ペンクラブの到着を迎えるため広島駅に行くと、降車口には街の出迎えらしい人々が大勢集っていた。が、やがて汽車が着くと、人々はみんな駅長室の方へ行きだした。彼も人々について、そちら側へ廻った。大勢の人々のなかからMの顔はすぐ目についた。そこには、彼の顔見知りの作家も二三いた。やがて、この一行に加わって彼も市内見物のバスに乗ったのである。……バスは比治山《ひじやま》の上で停《とま》り、そこから市内は一目に見渡せた。すぐ叢《くさむら》のなかを雑嚢《ざつのう》をかけた浮浪児がごそごそしている。それが彼の眼には異様におもえた。それからバスは瓦斯《ガス》会社の前で停った。大きなガスタンクの黝《くろず》んだ面に、原爆の光線の跡が一つの白い梯子《はしご》の影となって残っている。このガスタンクも彼には子供の頃から見馴《みな》れていたものなのだ。……バスは御幸橋を渡り、日赤病院に到着した。原爆患者第一号の姿は、脊の火傷《やけど》の跡の光沢や、左手の爪《つめ》が赤く凝結しているのが標本か何かのようであった。……市役所・国泰寺・大阪銀行・広島城跡を見物して、バスは産業奨励館の側に停った。子供の時、この洋式の建物がはじめて街に現れた時、彼は父に連れられて、その階段を上ったのだが、あの円《まる》い屋根は彼の家の二階からも眺めることが出来、子供心に何かふくらみを与えてくれたものだ。今、鉄筋の残骸を見上げ、その円屋根のあたりに目を注ぐと、春のやわらかい夕ぐれの陽《ひ》ざしが虚《むな》しく流れている。雀《すずめ》がしきりに飛びまわっているのは、あのなかに巣を作っているのだろう。……時は流れた。今はもう、この街もいきなり見る人の眼に戦慄《せんりつ》を呼ぶものはなくなった。そして、和《なご》やかな微風や、街をめぐる遠くの山脈が、静かに何かを祈りつづけているようだ。バスが橋を渡って、己斐《こい》の国道の方に出ると、静かな日没前のアスファルトの上を、よたよたと虚脱の足どりで歩いて行く、ふわふわに脹《ふく》れ上った黒い幻の群が、ふと眼に見えてくるようだった。
翌朝、彼は瓦斯ビルで行われる「広島の会」に出かけて行った。そこの二階で、広島ペンクラブと日本ペンクラブのテーブルスピーチは三時間あまり続いた。会が終った頃、サインブックが彼の前にも廻されて来た。〈水ヲ下サイ〉と彼は何気なく咄嗟《とっさ》にペンをとって書いた。それから彼はMと一緒に中央公民館の方へ、ぶらぶら歩いて行った。Mは以前から広島のことに関心をもっているらしかったが、今度ここで何を感受するのだろうか、と彼はふと想像してみた。よく晴れた麗しい日和《ひより》で、空気のなかには何か細かいものが無数に和《なご》みあっているようだった。中央公民館へ来ると、会場は既に聴衆で一杯だった。彼も今ここで行われる講演会に出て喋《しゃべ》ることにされていた。彼は自分の名や作品が、まだ広島の人々にもよく知られているとは思わなかった。だが、やはり遭難者の一人として、この土地とは切り離せないものがあるのではないかとおもえた。……喋ろうとすることがらは前から漠然《ばくぜん》と考えつづけていた。子供の時、見なれた土手町の桜並木、少年のくらくらするような気持で仰ぎ見た国泰寺の樟《くすのき》の大樹の青葉若葉、……そんなことを考え耽《ふけ》っていると、いま頭のなかは疼《うず》くように緑のかがやきで一杯になってゆくようだった。すると、講演の順番が彼にめぐって来た。彼はステージに出て、渦巻く聴衆の顔と対《む》きあっていたが、緑色の幻は眼の前にチラついた。顔の渦のなかには、あの日の体験者らしい顔もいるようにおもえた。
その講演会が終ると、バスはペンクラブの一行を乗せて夕方の観光道路を走っていた。眼の前に見える瀬戸内海の静かなみどりは、ざわめきに疲れた心をうっとりさせるようだった。汽船が桟橋に着くと、灯のついた島がやさしく見えて来た。旅館に落着いて間もなく、彼はある雑誌社の原爆体験者の座談会の片隅に坐っていた。
翌日、ペンクラブは解散になったので、彼は一行と別れ、ひとり電車に乗った。幟町の家に帰ってみると、裏の弟と平田屋町の次兄が来ていた。こうして兄弟四人が顔をあわすのも十数年振りのことであった。が、誰もそれを口にして云うものもなかった。三畳の食堂は食器と人でぎっしりと一杯だった。「広島の夜も少し見よう。その前に平田屋町へ寄ってみよう」と、彼は次兄と弟を誘って外に出た。次兄の店に立寄ると、カーテンが張られ灯は消えていた。
「みんなが揃《そろ》っているところを一寸《ちょっと》だけ見せて下さい」
奥から出て来た嫂《あによめ》に彼は頼んだ。寝巻姿や洋服の子供がぞろぞろと現れた。みんな、嘗《かつ》て八幡村で佗《わび》しい起居をともにした戦災児だった。それぞれ違う顔のなかで、彼に一番|懐《なつ》いていた長女のズキズキした表情が目だっていた。彼はまたすぐ往来に出た。それから三人はぶらぶらと広島駅の方まで歩いて行った。夜はもう大分遅かったが、猿猴橋《えんこうばし》を渡ると、橋の下に満潮の水があった。それは昔ながらの夜の川の感触だった。京橋まで戻って来ると、人通りの絶えた路の眼の前を、何か素速いものが横切った。
「いたち」と次兄は珍しげに声を発した。
彼はまだ見ておきたい場所や訪ねたい家が、少し残っていた。罹災後《りさいご》、半年あまり、そこで悲惨な生活をつづけた八幡村へも、久し振りで行ってみたかった。今では街からバスが出ていて、それで行けば簡単なのだが、五年前とぼとぼと歩いた一里あまりの、あの路を、もう一度足で歩いてみたかった。それで翌日、彼はまず高須の妹の家に立寄った。この新築の家にあがるのも、再婚後産れた子供を見るのも、これがはじめてだった。
「もう年寄になってしまいました。今ではあなたの方が弟のように見える」と妹は笑った。側では這《は》い歩きのできる子供が、拗《す》ねた顔で母親を視凝《みつ》めていた。
「あなたは別に異状ないのですか。眼がこの頃、どうしたわけか、涙が出てしようがないの。A・B・C・Cで診《み》て貰おうかしらと思ってるのですが」
妹と彼とは同じ屋内で原爆に遭《あ》ったのだが、五年後になって異状が現れるということがあるのだろうか。……だが、妹は義兄の例を不安げに話しだした。その義兄はあの当時、原爆症で毛髪まで無くなっていたが、すぐ元気になり、その後長らく異状なかったのに、最近になって頬《ほお》の筋肉がひきつけたり、衰弱が目だって来たというのだ。そんな話をきいていると、彼はあの直後、広島の地面のところどころから、突き刺すように感覚を脅《おびや》かしていた異臭をまた想い出すのだった。
妹のところで昼餉をすますと、彼は電車で楽楽園《らくらくえん》駅まで行き、そこから八幡村の方へ向って、小川に沿うた路を歩いて行った。遙《はる》か向うに、彼の眼によく見憶《みおぼ》えのある山脈があった。その山を眺めて歩いていると、嘗ての、ひだるい、悲しい怒りに似た感情がかえりみられた。……飢餓のなかで、よく彼はとぼとぼとこの路を歩いていたものだ。冷却した宇宙にひとりとり残されたように、彼はこの路で、茫然《ぼうぜん》として夜の星を仰いだものだ。だが、生存の脅威なら、その後もずっと引続いているはずだった。今も、生活の破局に晒《さら》されながら、こうして、この路をひとり歩いている。だが、とにかく、あれから五年は生きて来たのだ。……いつの間にか風が出て空気にしめりがあった。山脈の方の空に薄靄《うすもや》が立ちこめ、空は曇って来た。すぐ近くで、雲雀《ひばり》の囀《さえず》りがきこえた。見ると、薄く曇った中空に、一羽の雲雀は静かに翼を顫《ふる》わせていた。
彼はその翌朝、白島の方
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