らべると、兄の顔色は憔悴《しょうすい》していた。すぐ側に若夫婦がいるためか、嫂《あによめ》の顔も年寄めいていた。夜遅く彼は下駄をつっかけて裏の物置部屋を訪《たず》ねてみた。ここにはシベリアから還った弟夫婦が住居しているのだった。
 翌朝、彼が縁側でぼんやり佇《たたず》んでいると、畑のなかを、朝餉《あさげ》の一働きに、肥桶《こえおけ》を担《かつ》いでゆく兄の姿が見かけられた。今、彼のすぐ眼の前の地面に金盞花《きんせんか》や矢車草の花が咲き、それから向うの麦畑のなかに一本の梨《なし》の木が真白に花をつけていた。二年前彼がこの家に立寄った時には麦畑の向うの道路がまる見えだったが、今は黒い木塀《きべい》がめぐらされている。表通りに小さな縫工場が建ったので、この家も少し奥まった感じになった。が、焼ける前の昔の面影を偲《しの》ばすものは、嘗《かつ》て庭だったところに残っている築山《つきやま》の岩と、麦畑のなかに見える井戸ぐらいのものだ。彼はあの惨劇の朝の一瞬のことも、自分がいた場の状況も、記憶のなかではひどくはっきりしていた。火の手が見えだして、そこから逃げだすとき、庭の隅《すみ》に根元から、ぽっ
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