云うより他《ほか》はなかった。原爆のことを書いたその本は、彼の生活を四五ヵ月|支《ささ》えてくれたのである。
「それ位のものだったのか」と兄は意外らしい顔つきだった。だが、兄の商売もひどく不況らしかった。それは若夫婦の生活を蔭で批評する嫂の口振りからも、ほぼ察せられた。
「会社の欠損をこちらへ押しつけられて、どうにもならないんだ」と兄は屈託げな顔で暫く考え込んでいた。
「何なら、あの株券を売ってやろうか」
 それは死んだ父親が彼の名義にしていたもので、その後、長らく兄の手許《てもと》に保管されていたものだった。それが売れれば、一万五千円の金になるのだった。母の遺産の土地を二年前に手離し、こんどは父の遺産とも別れることになった。
 十日振りに帰ってみると、東京は雨だった。フランスへ留学するEの送別会の案内状が彼の許にも届いていた。ある雨ぐもりの夕方、神田へ出たついでに、彼は久し振りでU嬢の家を訪ねてみた。玄関先に現れた、お嬢さんは濃い緑色のドレスを着ていたので、彼をハッとさせた。だが、緑色の季節は吉祥寺のそこここにも訪れていた。彼はしきりに少年時代の広島の五月をおもいふけっていた。
[#地から2字上げ](昭和二十六年七月号『三田文学』)



底本:「夏の花・心願の国」新潮文庫、新潮社
   1973(昭和48)年7月30日初版発行
入力:tatsuki
校正:林 幸雄
2002年1月1日公開
2006年2月4日修正
青空文庫作成ファイル:
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