の頃、死別れた一人の姉の写真だったが、葡萄棚《ぶどうだな》の下に佇《たたず》んでいる、もの柔かい少女の姿が、今もしきりに懐《なつか》しかった。そうだ、こんど広島へ行ったら、あの写真を借りてもどろう――そういう突飛なおもいつきが、更に彼の郷愁を煽《あお》るのだった。
ある日、彼は友人から、少年向の単行本の相談をうけた。それは確実な出版社の企画で、その仕事をなしとげれば彼にとっては六ヵ月位の生活が保証される見込だった。急に目さきが明るくなって来たおもいだった。その仕事で金が貰《もら》えるのは、六ヵ月位あとのことだから、それまでの食いつなぎのために、彼は広島の兄に借金を申込むつもりにした。……倉敷《くらしき》の姪《めい》たちへの土産《みやげ》ものを買いながら、彼は何となく心が弾《はず》んだ。少女の好みそうなものを撰《えら》んでいると、やさしい交流が遠くに感じられた。……それは恋というのではなかったが、彼は昨年の夏以来、ある優しいものによって揺すぶられていた。ふとしたことから知りあいになった、Uという二十二になるお嬢さんは、彼にとって不思議な存在になった。最初の頃、その顔は眩《まぶ》しいように彼を戦《おのの》かせ、一緒にいるのが何か呼吸苦《いきぐる》しかった。が、馴《な》れるに随《したが》って、彼のなかの苦しいものは除かれて行ったが、何度逢っても、繊細で清楚《せいそ》な鋭い感じは変らなかった。彼はそのことを口に出して讃《ほ》めた。すると、タイピストのお嬢さんは云うのだった。
「女の心をそんな風に美しくばかり考えるのは間違いでしょう。それに、美はすぐうつろいますわ」
彼は側《そば》にいる、この優雅な少女が、戦時中、十文字に襷《たすき》をかけて挺身隊《ていしんたい》にいたということを、きいただけでも何か痛々しい感じがした。一緒にお茶を飲んだり、散歩している時、声や表情にパッと新鮮な閃きがあった。二十二歳といえば、彼が結婚した時の妻の年齢であった。
「とにかく、あなたは懐しいひとだ。懐しいひととして憶《おぼ》えておきたい」
神田を引あげる前の晩、彼が部屋中を荷物で散らかしていると、Uは窓の外から声をかけた。彼はすぐ外に出て一緒に散歩した。吉祥寺に移ってからは、逢う機会もなかった。が、広島へ持って行くカバンのなかに、彼はお嬢さんの写真をそっと入れておいた。……ペンクラブの一行
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