うち六万円で今度、大工を雇ったのです」と姉は云うのだった。ここは爆心地より離れていたので、家も焼けなかったのだが、終戦直後、姉は夫と死別し、二人の息子《むすこ》を抱《かか》えながら奮闘しているのだ。だが、その割りには、PL信者の姉は暢気《のんき》そうだった。「しっかりして下さい。しっかり」と姉は別際《わかれぎわ》まで繰返した。
明日は出発の予定だったが、彼はまだ兄に借金を申込む機会がなかった。いろんな人々に遇い、さまざまの風景を眺めた彼には、何か消え失せたものや忘却したものが、地下から頻《しき》りに湧《わ》き上ってくるような気持だった。きのう八幡村に行く路で雲雀を聴いたことを、ふと彼は嫂に話してみた。
「雲雀なら広島でも囀っていますよ。ここの裏の方で啼《な》いていました」
先夜|瞥見《べっけん》した鼬《いたち》といい、雲雀といい、そんな風な動物が今はこの街に親しんできたのであろうか。
「井ノ頭公園は下宿のすぐ近くでしょう。ずっと前に上京したとき、一度あの公園には案内してもらいました」……死んだ妻が、嫂をそこへわざわざ案内したということも、彼には初耳のようにおもわれた。
彼はその晩、床のなかで容易に睡《ねむ》れなかった。〈水ヲ下サイ〉という言葉がしきりと頭に浮んだ。それはペンクラブの会のサインブックに何気なく書いたのだが、その言葉からは無数のおもいが湧きあがってくるようだった。火傷で死んだ次兄の家の女中も、あの時しきりに水を欲しがっていた。水ヲ下サイ……水ヲ下サイ……水ヲ下サイ……水ヲ下サイ……それは夢魔のように彼を呻吟《しんぎん》させた。彼は帰京してから、それを次のように書いた。
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水ヲ下サイ
アア 水ヲ下サイ
ノマシテ下サイ
死ンダホウガ マシデ
死ンダホウガ
アア
タスケテ タスケテ
水ヲ
水ヲ
ドウカ
ドナタカ
オーオーオーオー
オーオーオーオー
天ガ裂ケ
街ガナクナリ
川ガ
ナガレテイル
オーオーオーオー
オーオーオーオー
夜ガクル
夜ガクル
ヒカラビタ眼ニ
タダレタ唇《くちびる》ニ
ヒリヒリ灼《や》ケテ
フラフラノ
コノ メチャクチャノ
顔ノ
ニンゲンノウメキ
ニンゲンノ
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出発の日の朝、彼は漸く兄に借金のことを話しかけてみた。
「あの本の収入はどれ位あったのか」
彼はありのままを
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